2022.05.06/折に触れ
職場復帰。身体がまだ適応しない。GWはみんな出かけてしまっているようで、思ったほど混まなかったそうだ。
いろんなひとに優しい言葉をかけてもらう。かつてこんな職場はなかった。本当に人に恵まれている。職場には、病を抱えている家族がいる人、病気で早くに家族を亡くした人、さまざまなバックグラウンドや悲しみを抱えている人たちがいる。実感を伴った言葉が染み入っていく。私たちは本当によくやっている。
いつもの仕事に3倍時間がかかる。端的に言って身が入らない。まぁ、もう、しょうがない。諦めも肝心だ。
仕事帰り、夜更けのコンビニで一服する。近所に住んでいるであろうおばあさんが、よたよたと一人で歩いてコンビニへ出入りする風景を見る。さみしくないかな、つらくないかな、と勝手に心配になる。
帰宅する。毎月、なんとなく季節に合っていたり、今聴きたい曲をピックアップしてプレイリストを作っているが、5月はまだ作っていなかったので作ってみる。森山直太朗ばかりになってしまい一旦やめる。
4月の終わりからなぜかずっと、森山直太朗の「人間の森」を聴いていた。ここ数日は聴くたびに涙が溢れた。歌詞と沿っているかのような人生を感じていたからだ。と同時に、そんな陳腐な自分の感性に嫌気が差す。曲の最後の歌詞は何度も噛み締めた。
昨日、兄が通勤に使っていた折り畳み自転車を、錆びてしまうから兄の車にしまったと、母から伝えられる。「玄関の外に自転車がないの気づいた?」と聞かれるも、わたしはブリーチしたばかりの髪と、異世界ドン・キ◯ーテの帰りでふわふわとしており、まったく気づかなかった。
「お父さんも気づくかなぁ」という母親の呟きから、いつかのランチを負けた方が奢るという約束で、母は「気づく」、私は「気づかない」に賭けた。
いつもリビングで涅槃像のようにテレビの前で横たわる父は、その後ろで誰が出入りしているのか分からず、私を母だと思って話しかけてきたことがあった。しかも私が返事をしてからも、母だと思って会話していたのではないかという節がある(事実確認は恐ろしくてできなかった)。
この出来事もふまえつつ、私だけ気づかないなんてあってたまるか、この鈍感家族の中で。という感情があっての賭け事だったが、この日、父は帰宅と同時に「自転車がないじゃん」と言葉を発した。私の完敗だ。母がこの賭け事を不用意にバラすものだから、滅多に部屋を訪ねてこない父が抗議の言葉を伝えに来た。なんだかみんな笑っていた。日常が戻ってきた。もう、慣れてきてしまったのだ。
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