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「あぁ、あの時代は野蛮だ」なんて言ってると、きっと未来からも同じこと言われれているよ、な映画

悪いことと、いいこと。このあたりを何と定義す!な感じのする映画だった。綾野剛の演技自体を初めて観るほどの、鑑賞モグリとしては、新鮮。こんな人だったのかという。ダメ男なんか向いてそうだけど。

映画自体は半分フィクション、半分ノンフィクション。北海道警察で起こった史上最悪の不祥事「稲葉事件」がが下敷きになったお話。警察官の不正・違法捜査がらみの。捜査対象組織内にスパイを作って、密告させる。それで検挙成績を上げる。不正で違法な方法を駆使するから、どんどん深みにはまっていく。スパイのことを「S」と呼ぶのは、わかりやすすぎるのではとおもうのだが皆さんどうですか?

スパイを「S」と呼ばない・別名を考える

スパイ→SPYでSは単純だなぁ。隠語としても成立しないのではと思う。
僕なら、スパイ→酸っぱい→梅干し→梅 ぐらいにしちゃう。もしくは、スパイ→SPY→SP→スーパー→タイムセール ぐらいにしちゃう。長い?

まぁ、スパイのことをSと呼んでいると、なんだかバレてもいいという感じがするんだよね。見つけて欲しい感があるのだ。そんなことない?

キャストはほどほどに、最適な感じ

綾野剛が主演とわかる映画で、そこを食ってかかる脇役はいない。中村獅童が若干、舎弟感を出しすぎてそんな立ち位置?みたいなのは後半伏線回収された。まぁ、そうなるわなの感じ(ネタバレなので言いません)。

目を見張るのは、やはりデニスの植野行雄だ。容姿ありきで、外国人設定。ネパール?インド?パキスタン?設定を忘れたがこのあたりの設定だった。意外と植野行雄の演技が素晴らしく、この人は日本語あまり話せなかったっけ?とバグるほどだった。後半にさほど重要な役ではないが、音尾琢真が出ており、何かすごく絡む?と期待させてくれた。悪役もいい役もできる俳優なので、このあたり観ている方がハラハラしてしまう。

時代とモラルについて考えさせられた映画

この映画を観て考えたことは、「昔はモラルが低くてとか、そういう考えが甘くて」といった問題だ。この映画は、検挙のためならば裏金を使ったり、おとり捜査・スパイ(内通者)を囲い込む、銃を取り締まりたいために銃自体をマフィアから買い取るというものだ。

あぁ、モラルないなぁ。と思うが、映画内で検挙の裏金を作るために、覚せい剤を販売する。刑事(綾野剛)がその悪事に手を染める。これを見て、銃の検挙のためなら仕方ないなぁ。どうせ、この人たちが販売に携わらなくても誰かが売って、誰かが買うからなぁ。とはならない。

確実に犯罪。犯罪スレスレじゃなくて、犯罪。これは犯罪だから、昔はまだ甘かったよねとも思わない。

ならば、学校での体罰はどうだった?

急に社会派チックなお話になるけれども。僕は1970年代生まれだ。団塊の世代jrと呼ばれる子供たちメチャンコ多い時代。小学校ではクラス48人体勢という、今でいうところのアイドルグループ並みの詰め込み感だ。

小学校のお昼の恒例風景と言えば、給食食べ終わるまで、帰れまセンだ。僕はかす汁が嫌いで、なんとしても食べられなかった。先生との戦いで、放課後17時ぐらいに心配した親が迎えに来て、帰っていいことになった。

メソメソと泣く僕に、母は「家で食べる特訓する?」と声をかけてきた。流石僕の母。今かけて欲しい言葉ではない、それは違う。小学四年生の頃だった。五年生になると給食が苦手な子は増えてくる。好き嫌いもはっきりしてくるし、自分の意思も固い。なにより、アレルギーの同級生もいた。食べられないと、班の責任にもなったりして、どこか間違っているとみんなおもっていた。

六年生に進級したころにはとにかく、誰かが叩かれていた。先生に。原因がよくわからない、ビンタだった。当時から時代だよねぇなんて思えなかったことを今も覚えている。

ゆで卵がどうしても食べられないクラスメイトがいた。アレルギーではないようだった。だが、どうしても食べられないので(五年生の時は食べていた・担任は五六年同じ)、先生に親が食べるなと言ったとウソをついた。先生は、そのウソを見破りクラスメイトを叩いた。

クラスメイトが叩かれた話を両親にしたが、特に問題意識もなかったようにスルーされたことも覚えている。それ以降、僕自身が先生に叩かれても、両親には言わなかった。

悪いことをすると、叩いていいとするならば
悪いことの定義は暗黙の了解・ルールじゃなくて、公開すべきだと思う方だ。それがいちいちメンドクサいだろうけど、学校も道徳なり学級会を通じて指導していかねばならぬ。ここで、重視したいのはルールの公開の外側にある。つまり、このルールに「給食を残すとペナルティ(精神的に)や、ウソをつくと場合によっては叩かれる」と公言したかどうかだ。

もっと言うと、学校の先生はペナルティとして「叩く・追い込む」ことができる権限があると、公言したのかどうかが問題だ。

体罰に対する周りの目が厳しくなっている=だから体罰をしない、ということでは筋が通らぬ。「他人を叩くと、暴行。暴行すると、処罰される」刑法知らんけども、この流れは急に2000年頃になって生まれたものではなかろう。

ということは、体罰自体はダメなことだとしても、「●●の目的であれば許される」という考えが根っこにあるのだ。これが問題。この映画も「犯人・銃の検挙の目的であれば、許される」という誤った視点から、不祥事が生まれてくるのだ。

みんなで考える問題になっているということ

我が子に指導と称して、叩くと逮捕されるというニュースを目にしている。親にはよく叩かれた記憶がある。考え方かもしれないが、動物も叩いて覚えることなんて何もないと思っている。ましてや人間だから。

自分以外の人を叩くと逮捕、世の中の判断基準がようやくまともになってきたのかなと思う。だが、一方、我が子が悪いことしたときにどうすればいいのか問題に遭遇する。これは難しい。だけど、暴力に依存してきた時代にいたものとしては、この辺りを真剣に考えないといけない。もっと早く自分の頭で問うべき問題だったが、目をつむっていた時点で僕も小学校の先生と同じだし、問題をスルーしてきた両親となんら変わりはないのだ。

そういう点では、あの時代は野蛮だったなぁ、なんてこと言っててもダメだと思う。もしかしたら、今でも十分に野蛮な時代なのかもしれないから。そんな頭で今日も生きていく。

この時代は野蛮だなぁ、と傍観してちゃぁいけない一作、『日本で一番悪いやつら』、ぜひご鑑賞くださいませ。


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