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心配性という名の、思い通り症候群をバッチバチにしばく!

僕は極度の心配性だ。心配性、不安が襲ってくる系ではなく、起きもしないことを妄想する系かもしれない。だからといって、宇宙人が攻めてくるだの、明日大地震が来るだの、車運転中に脳梗塞になってしまう、といったことを妄想して不安になるわけではない。

そのあたりは心配性のなかでも、ズボラな方で「まぁ、そうそう起きんやろう」なんて言いう風に考えて先延ばしの棚の上にチョンと置いたっきりにしているのだ。

ソファー、不用品引き取り問題

僕が心配してしまうのは、いま目の前で起きたことに対するものだ。たとえば、家には15年もののソファーがある。これを捨てて新しく買い換えたい。すると、その買い替え候補先に不用品引き取りをしているのか、すぐ調べたくなる。そして、不用品引き取りをしていなければ、市の不用品引き取りを調べてしまう(これ今日の朝の出来事)

この間、朝食も気が気でない。頭の中が問題・不安の解決に取られてしまいがちなのか。で、朝食を食べ終わり、お皿を洗い、洗濯物干しのサポート(妻がメイン)を終えたら、さっそく調べにかかる。

妻からは「今やらなくていいんじゃん?たとえ時間満タンなフリーランスだとしても」なんて言われるが、もう調べたくなってるから調べちゃう。

で、市の不用品引き取りは、予約→日程確定→引き取り時点で査定→引き取りというフロー。あぁ、ここでさらなる3つの心配事が。

1.不用品を外に出しておかねばならぬが、私はマンション暮らし。ゴミ捨て場に一時的に置かせてもらうとするか
2.費用は実際いくらなんだろう、5,000円もかからないと思うが
3.引き取りの時間に在宅してないとダメだろうけど、時間通りに業者はくるものだろうか

その心配事中に、今日の午前中にある歯科検診のことが頭をよぎる。「お金いくらぐらいかかるんだろう」なんてことを考え始める。すると、ソファーのことをいつの間にか忘れている。都合のいいポンコツ脳である。

心配性になったのはなぜだろう

仕事柄、校正ミスが許されない。簡単に言うと、僕はコピーライター・本の編集系で飯を食ってきたので、誤字脱字に敏感肌なのだ。だから、仕事が終わって印刷にかかる(校了・下版)なんて状況になった夜、打ち上げなんかには行けない。常に携帯を握りしめて、印刷所からの「コレ大丈夫ですか?」みたいな電話に怯えていた。

印刷がすべて終わってからも、えらい間違いが見つかることもある。それが自分起因であろうがなかろうが、職務上管理職などという偉そうな仕事もしていたので、ミスはぜんぶ自分のせい、というルールで生きてきた。

皆がみんなそうではない。部下に責任を押し付ける人もいたし、まぁミスなんて人間だから起こすよ、なんていう人もいた。

そう思えないのは性格や性分なんだろうけども。大昔、チラシの仕事をしていて、テレビの値段を間違えて印刷したことがある。一桁間違って、¥19,800みたいな価格で印刷しちまった!幸いにも限定5台だったので、店側の損害額は少なかったが、当時は弁済だのなんだの、大変な話にもなったものだ。ハハハ。

そういう教訓が心配性という能力となって顕現したのだろう。この能力のいいところは、次から次へと心配事をサーフィンできるということだ。今朝あったように、ソファーの不用品引き取りを心配していたと思いきゃ、歯科検診の料金のことを心配している。最終的には、昼食べた納豆の賞味期限が切れていたけど、大丈夫だろうかなんてことを心配している(←今・NOW!)

そんなやつおらんやろ、とツッコんでいた漫画へ捧げる

岡田あーみん先生の名作「お父さんは心配症」をよく読んでいた。妹が買っていた「りぼん」で。僕が中学1年生ぐらいの頃だったと思う。

言わずと知れた、名作だ。今もう一度読みたい。妻を亡くし、父娘二人で暮らす光太郎と典子。16歳の典子はとてもいい娘なのだが、父の光太郎がとにかく暴走して必要以上に娘のことを心配しちゃう、って話。

子どもの頃、『ときめきトゥナイト』を読んだ後、『お父さんは心配性』を読んでいた。ラブコメ→ギャグのルートがとても楽しみだった。読みながら、「こんな大人いーひんやろ」「デフォルメしてるわぁ」「クレイジーな父ちゃんだ」なんて思っていたけど、いざ、大人になったら、僕だってそんなに遠くはない。光太郎は僕のなかにもいたのさ。ハハハ!

昨日の夕飯での、マウスピースあるのか事件

僕の息子は歯列矯正をしている。サラリーマンを辞めて唯一よかったと思えるのは、彼の歯列矯正通院に同行できることだ。1か月に1回の予約、これがなかなかの厳しいスケジュール。息子のスケジュールに合わせるだけでも大変。これが、サラリーマンだったら午後休なんかとったりして、調整は難しかっただろう。

フリーランスゆえに、このあたりはフレキシブル。それが本当に救いだ。歯列矯正はその日々日々のキチンとさが、モノを言う。前期治療を終え、後期治療までの2カ月間。装置作成待ちでもあるこの間は、マウスピースで歯を固定する。次の装置のカタドリもしているから、歯の位置が動くことはあってはなんねぇ。

ということで、マウスピースの装着は重要課題だ。なくしたら作り直してもらえるが、また病院の予約から始まり、学校を前半休させるということにもなる。しかも費用もタダではない。数万円かかる。失くすことはできないのだ。その間に歯が動いてしまわないのだろうか、なんてことも考える。

マウスピースを外せるのは、食事~次の歯磨きを終えるまで。その間はマウスピースを専用のケースに入れておく。おにぎりケースみたいな三角形のものに。

そして、歯磨きは食後すぐにはしないものだ。30分はウェイティングだ。再石灰化といって、口中の唾液が食事等で損傷したエナメル質を修復してくれる時間なのだ。

つまり、前述したように食事~次の歯磨きまでは、「マウスピースを外している時間=マウスピースロスタイム」なのだ。で、その間マウスピースはおにぎりのケースみたいなのに入っているはず、だった。

洗面所に無造作に置かれたマウスピースケースを振ると、いつもは中に入ったマウスピースがカラカラと音を立てる。それを確認して僕は食卓に着く。万一、息子がマウスピースを紛失していないか、多感な頃の息子とのコンタクト回数を減らしつつ、重要事項を確認するという、自分なりの心配解決法だった。

が、ここで事件が起きる。食事のテーブルに息子、妻、そして僕。用意をする妻をサポートせずに、洗面所へ。マウスピースケースを振る。カラカラと音がしない。ケースを開ける。マースピースがない。

焦る。そっか、まだ口に付けているんだ。外していないんだな、息子よ。おっちょこちょいめ。食事するときに、気づくだろう。

「いただきます!」の声が狭いダイニング+リビングルームに響く。テレビは消している。夕食のときは声が聞こえるように、食事を楽しむためにと、テレビはつけないのだ。

鳥の照り焼きがメイン。このメインは僕が作った。柔らかく仕上げたが、マウスピースを外さないことには食えないぞ、息子よ。

だが、むっしゃむっしゃと食べる息子。どうして?なぜ?マウスピースは?
心配性が起動する。心配性シンクロ率が120%を越えている。その表情を見逃さない歴25年の妻が「何か、心配事でもあるようだな」と。

「あぁ、え、うん、えっと」としどろもどろの僕。
むっしゃむっしゃと、次の鳥の照り焼きを恐ろしい速度で食べる我が息子。
「あ、あの」
「なに?」
「えっと」
「なんなの?」
「マウスピースは…」
そこで息子が
「外してるし!」と。

「さっきマウスピースケース、見たけど、空やったから」
「いや、あるし!」
「そ、そうなん、ゴメン」

「テレビをつけずに家族の会話を楽しむ」なんてことを言ったが所詮はこんな程度の会話。父・夫の心配性ぶりに、家族は呆れているというか、そういうモノとして認識しようとしている。家族から僕に求められているのは、自分が過度の心配性であると、認識することだ。

【追伸】マウスピースは彼の歯ブラシコーナーにぶら下げられていた。清潔さを保つための彼なりの考えだったのだ。

先回りすることに「異議あり」を唱えなければならない

もっと自分の原体験を振り返ってみる。小学一年生の頃、僕は入学式前日におたふく風邪に罹ってしまい、初日からつまづいた。記念写真には、右上の方で僕だけが丸く囲まれて映っている。親もさぞかし残念だっただろう。笑顔で丸囲みされた僕を見ると、今でも切ない。

ここで一つフラグが立つ。大事な記念事の前には、体調管理を!というものだ。まぁ、コロナを経験した全人類、もうこの思想に近づいていると思うが。

そして、決定的な心配性の種がまかれたあの日。そう、初めての給食。覚えている。机に真新しいヒーローもののナフキンを置いて、お盆を持って並ぶ。上級生が配膳してくれる。なんの給食だったか忘れた。自分の席に戻る。ナフキンがない。

目の前の男の同級生の机の上には、同じナフキンが。その同級生は、ナフキンを置いていなかった。たぶん、僕のナフキンを盗ったのだと思う。先生にも言ったが、信じてもらえない。

とにもかくにも、名前を書いていないことが問題だった。母親には、ただナフキンを失くしたとだけ伝えた。子どもながらに、みんなより学校に遅れて登校したことで心配かけているのに、これ以上心配かけられないと思ったのだろう。

ここで、僕の人生にもうひとつフラグが立つ。持ち物には名前を書く、ってことだ。当たり前のことかもしれないが、これがどう人生に悪影響を及ぼすかというと、新年度になり息子の教科書を見ると「名前とクラス書いておいてよ」と言ってしまう。

それは、息子がこれから失敗しなければわからないことなのに、僕は自分の失敗を家族の誰にもさせたくないのだろうか、先回りをしてしまう。そう言うと、家族のためみたいに見えるが、所詮は自分のためであることに気づくのだ。このあと。

それは、先回りではなかった。ただの、思い通り症候群だった

さてここからが本題だ。タイトルにもあるように「心配性という名の思い通り症候群をバチッバチにしばく!」、これが僕の解決すべき課題であり、病といえば病だ。

1.自分を思い通りにコントロールするということ

人を自分の思い通りにコントロールしたい、結局のところ不安だ心配だと思い行動すること。自分に向けられた事象の場合でも、未来の自分を思い通りにコントロールしたいだけということになる。どうなるかなんてわからないのだから、今考えなくてもいいはず。なのに、今の自分を使って未来の自分を定位置に置いておきたいそんな風に考えているのだ。

難しい?今日ソファーの不用品引き取りの件、妻が仕事に行く直前に放たれたコメントに一刀両断された思いになった。

「ソファーをどこで買うか確定してから、その販売先が引き取りしてくれるならそこに頼めばいいいし。そうでないなら、市役所に頼むだの、ソファーをぶった切って、燃えないゴミ扱いにして出せばいいし。とにかく、まだソファーを買い換えないんだから、今の時間無駄にするなよ。じゃぁ」

25年僕ウォッチャーの妻より

といって、スパーンと僕を真っ二つに、その後返す刀で三枚おろしにして、妻は家を出たのだ。

眼から魚まるごと出た気分だった。まだ起こりそうにもないことを、先回りして自分の時間を奪う。そんなことはあまり建設的ではない。

2.自分以外の人をコントロールするということ

これも厄介な話だ。サラリーマン時代、社内も社外も自分の決めたスケジュールで仕事を進める係だった。それはそれでいいと思う。でも、それは決められたスケジュールのなかで動く共同作業の場合。僕がある意味ペースメーカーみたいな役割だからだ。

そのまま、家族にまで持ち込んだ先回り・心配性。その正体は、自分以外の人を思い通りにコントロールしたいというものだと思う。自分のタイミングで他人を動かすとうことは、他人の自由を都合よく奪うというものだ。

その危うさに50歳になってようやく気付いたという、不出来な人間が僕だ。思春期だから息子に嫌われているのかと思い込んでいたが、そうじゃない。

夫婦が長いから、嫌なところも目につくのかなと思い込んでいたが、そうじゃない。

違う、まるで違う!そうじゃないんだよ!ってことに気づくのには時間がかかりすぎた。開き直っているわけじゃぁない、もうすでに妻に三枚に開きおろされているのだし。

心配性を言い訳しない自分へ

クスリとも笑えないお話ではあるが、まぁ家族間であっても失ったものを取り戻すのは他人以上に難しい。その時だけみたいに、行動を改めるのは他人には有効かもしれない。たまにしか会わないのだから。

家族は毎日顔を会わせる。行動のひとつひとつが見られているものだ。だから、そうそうちょっと反省していたところでそれはパフォーマンスと受け止められかねない。だから、毎日毎日自分の言動を改めたことを忘れちゃぁいけない。

僕は他人と比べて過度の心配性かもしれない。でもその正体は「思い通りにコントロールしたい症候群」だ。自分も他人も。だが、その正体を見つめる気力があれば、付き合い方も変わる。

もちろん心配性はマッチョで健在だから、出かけにガスの確認は何回かする。水道は出しっぱなしじゃないか?窓は閉めたか?トイレの電気消した?猫は家にいるか?など確認事項は多い。

それらをすべて記憶にしっかり刷り込む。そのおかげで、出かけたら「ガス消したかな?」みたいな余計な心配はしない。他の心配事も同じだ。それはそれで良いのかもしれない。

「どうせ、あと20年ぐらいしたら死ぬんだし、もう少し気楽に生きてみるよ」なんて妻に言ったら
「え?20年も生きるの?生きる気マンマンやん。それはそれで、メンタル強いな」と八枚おろしぐらいの向こう側が透けて見えるくらいまでに、さばいてくれました。

そうなんだよね、全部に心配するって、何も優先順位決めていないってことなのだ。ある意味何も選んでいない・決めていないってことは「楽している」ってことなんだよね。だから、気楽に生きるんじゃなくて、考えて生きるってのが正しいのかもしれない。

たまには、マジメなお話でオチもございませんが、あと30年生きてやろうと思う。80歳!歯科検診でわかったことは、やっぱ歯は大事だな。ハハハ!

おわり。


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