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みんなのしあわせけいかく

大好きな漫画が完結した。鬼山瑞樹先生の「嫌がってるキミが好き」。連載初期からずっと追っていた作品である分、情緒が暴発してTwitterに感想を連投しすぎたので、こちらに感想を書いている。自身のTwitterからも拝借。ネタバレもあれば考察もある。自己満。

物語は、大槻まことが白川みことに告白するシーンから始まる。みことは、自己中心的でプライドが高く、いつも見栄を張ることに精一杯な女子高生だ。周囲はそんなみことに辟易し、距離を置いたり都合のいい友人として扱う。付け加えておくと、容姿が整っていないと揶揄される描写もあり、作中において彼女が「愛されヒロイン」である要素はあまり出てこない。そんなみことは、とにかく「自分に異性が告白してきた」ことが嬉しくて舞い上がる。しかし、まことが好きになったのは「嫌がってる顔をするみこと」だった。あの手この手で嫌がられようとするまこと。それをみことは気持ち悪く思うが、「彼氏持ち」というアクセサリーを手放したくない。そんな2人が軸となり、物語は展開される。

おそらく特筆すべきは、「みことの変化」だと思う。物語当初のみことは、まことの行いに「嫌い」「気持ち悪い」などという言葉を用いて拒絶しようとするのだが、物語が進むにつれ酷い扱いを受けることに快感を覚えていく。これはオートアサシノフィリアから起因するものだろうが、これも物語当初のみことにはなかった嗜好だ。対して、まことの嗜好は一貫しており、「自分の行いに対して嫌がってる顔をするみことが好き」なのだ。もちろん、普通のカップルよろしく、みことが他の男性と関わろうとするとすぐに妨害してくる。ただ、まことにおいて特殊なのは、「自分以外の男性と関係を持つことは構わないが、嫌がってる顔を作るな」という主張である。また、まことは度々「みことを殺したい」といった内容の発言もしている。ここに関しても物語当初から一貫している。

「殺されたい女」と「殺したい男」。一見恋愛関係として上手くいく(?)ように見えるが、最終話において、みことはマッチングアプリで出会った男を激昂させ絞殺され、まことはみことが死んだことを知らぬまま、嫌がってる顔のみことの幻影を思い浮かべる。

この物語において、みことはおそらく誰のことも好きになっていない。この作品のキーパーソンとして安藤秀一という人物がいる。彼は、高学歴で性格のいいイケメンという、いわゆる誰もが好きになるような王子様キャラといった形で登場する。秀一と出会った当初、みことは既にまことと交際関係にありながら、秀一に好意を抱くような描写がある。しかし、結局は「彼氏以外と関係を持つこと」や「複数人の男性と関係を持つこと」に優越感を感じ、それが関係を持つ理由になる。恋人であるまことに関しても上記の通り、アクセサリー感覚で関係を続けている。「みことは○○に殺されたかった」の○○にも注目したいのだが、ここに関しても誰でもよかったのだと思う。実際、まことに殺されかけようが、他の人物に殺されかけようが、みことは愉悦を覚えていた。誰のことも好きではないから、誰でもいいから付き合いたい。誰でもいい。「嫌がってる顔をするみこと」が好きなまことと違って、みことは「酷いことをされること」が好きになったのだ。ここが、2人の最大のすれ違いなのだと思う。まことにとってみことは、「嫌がってる顔をしないみこと」になり、みことにとってまことは、「酷いことをしてくれる人」になった。

最終話の前話において、まことはオートアサシノフィリアに目覚めたみことに「価値がない」と言い捨てる。そんなまことにみことは「価値がある子に戻るからその時にまた会おう」と宣言する。しかし、最終話において、みことが価値ある存在に戻ろうとするような描写はなかった。ただ、己の欲求を満たし、異性を取っかえ引っ変えした挙句、特定の男性へ向けた気まぐれのような独占欲がきっかけで殺される。一方で、まことは特に目立った描写はなく、ただただ時を経て職につき、就労先の同僚に恋人の有無を聞かれ、「彼女がいる」と答える。そして、学生服の、まだ関係があった頃の「嫌がってる顔をする」みことを妄想するのだ。

ここでまことに関しても記述したいのだが、まことにとって、「酷いことをする」=「嫌い」ではない。好きだから酷いことをする。ならば、なぜまことはオートアサシノフィリアでない頃のみことを殺さなかったのか。また、ゴキブリを用いた嫌がらせをした際、みことの発した「殺して」の言葉になぜ喜んだのか。これは、まことがみことに向けた愛情の表れなのではないかと考える。まことにとって、みことを殺すことは最大の自己愛である。対して、まことが恋した当時のみことは、当たり前のように死にたくない。だから殺さなかった。「殺して」に喜んだのも、死にたくないみことから、きちんと了承が得られたことに喜んだのではないだろうか。おそらく、ずっとずっと、まことはみことを思いやっていた。最終話のまことも、きっと、みことを待っていた。まことはみことのことを、まことなりに愛していたのだと思う。みこともその他の人物も、自己愛を拗らせ自己愛を満たそうと躍起になり自己愛に苛まれていく中で、もしかしたらまことだけが他者を愛していたのかもしれない。

ここに関しては単なる自己満の考察となる。作中にて「キミが死ぬ時思い出すのはボク」というまことの台詞があるが、みことは薄れゆく意識の中でまことが己の首を絞める姿を思い浮かべる。初見時は、ただ思い浮かべただけなのかなと思っていたが、もしかしたらあの時、みことはまことに殺されたかったと思ったのかもしれない。実際、みことを殺した男も、ややまことに似ている外見をしていた。もしかしたら「酷いことをしてくれる人」を探している過程で「まことの面影を持つ人」を探していたのかもしれない。もしくは、自身の首を締め上げるまことではない男性の手を感じながら、「この男性はまことである」と想像していたのかもしれない。かなり自己満な考察ではあるが、もしも本当であるならば、みことはやはり愚かで馬鹿な女の子なんだろう。

第26話において、「みんなのしあわせけいかく」というサブタイトルが用いられている。このサブタイトルは、それぞれの「しあわせけいかく」を集めたが故の「みんな」であり、おそらく共通を表す「みんな」ではない。「ボクたちにハッピーエンドなんてない」というまことの台詞に関しても、みこととまことには、集合体としてのハッピーエンドはなく、それぞれのハッピーエンドを迎えることしか出来なかった。きっと、2人が出会った当初から、この帰結先に向かうしかなかったのだ。

以上をもって、素晴らしい作品をくださった鬼山先生に、みこととまことに、最大級の愛を。ありがとうございました!

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