「書けない」ということを書きます
みなさん、お元気ですか?
文章、書いてますか?
わたしは書けていません。
小説が書けません。
いままで小説を書かずに生きてきていれば、大した問題ではなかったかもしれない。けれど私は、小説を書いてきました。四年間学びました。たった四年ですが、学びました。
小説が書けないということは、正直、内臓のひと機能が消えたくらいの気持ちです。
原因はなんとなく、わかっています。
体力や集中力、時間の問題もありますが、それは後付けの言い訳かもしれません。
自分の中では分かり切っていることが二つ。
「小説を書く」ということにこだわりすぎていること。
「書きたいこと」というものが現状、無であるということ。
四年間の学びで得た知識は、「小説を書く」経験の初歩の初歩に過ぎず、その先の学びをわたしはわかってはいませんでした。
いま、「書けない」という長い長い路頭に迷っています。
四年。長いようで短い時間です。大学からもう二年経ちました。毎日あの頃が懐かしく、いちばん輝かしい日々だったと思います。
知識を詰めるだけで精一杯だったあの頃。課題という形でも、たくさん小説を書いていたあの頃。
小説を書くことがとても楽しく、これが生きる道だとすら思っていたあの頃。
「自分にとって小説を書くとはどういうことか」
「何を書きたいのか?」
という問について、未だにわたしは答えがありません。
「何を書きたいのかがわからない」
つまり「テーマ」がわたしにはありません。
わたし自身、とても社会の動きや、人の噂話などに鈍感で、みんなが既に知っていることをまるで知らなかった、ということが多いです。
世間で問われるテーマといえるテーマに、巡り合っていないような気さえします。
全てのことに鈍です。あらゆることを、感じ過ぎないようにセーブしている部分もあります。
セーブしているから、いつのまにかもっと鈍感になってしまった。そうも思います。
わたしは、わたし自身を、混線するラジオと同じだと思っています。
制御しないとすぐ、理屈を抜きにして感情だけを受け取ることが多いです。とくに悪意。
苛立ちや、悪口や、噂話や、自慢話や、そういったもので擦り切れてしまいます。
そのひとのきれいなところだけを知っていたいと思うわがままが、そうさせているような気がします。
器が小さいのです。
悪意を咀嚼して飲み込めるほど、大人ではないのです。
ひとを愛していたいのです。
うつくしいと思いたいのです。
悪意あるひとが嫌いです。
悩めるひとが怖いです。
ひとの人生が苦手です。
わたしのなかのそういう部分も、きわめて苦手といえます。
だから、きれいなことばかりを書きたいと思っていました。
情緒とか、情景とか、飾り物のようなうつくしさを、ひとのもっとも弱くてうつくしい、虚勢、見栄、理想が好きなのです。
夢を見過ぎているくらいが、ちょうどいいと思っています。
夢のかたちはうつくしい。本当のことがひとつもないのに、そこには本当のことしかありません。
おもちゃの指輪。ラムネのビー玉。きらきらした無価値。そんなものが好きです。
誰にも明かさなかった小さな秘密。
そんなことでといわれてしまう、小さな小さな動機が好きです。
こんなことは、テーマになるのかわかりません。
こんな話を書いたところで、誰の役にも立たず、毒にも薬にもならない話です。
けれどそれで、いいのだと、なんとなく書きながら思えました。
まだ小説は書けません。
けれど書きます。
小さな小さな書きたいことを、ちゃんと見つけていきます。
いまは迷っていきます。
「書けない」の森を彷徨ってみます。
散文となりましたが。
以上、「書けない」ということを書きました。
追記
少ないですが以前リハビリでちょこちょこ書いてた「嘘日記」を置いておきます。
ではまた。
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