【小説】天国が遠いなら

天国が遠いなら

 男は長身で、色白く、全身は影のような真っ暗の外套に覆われていた。襟を立て猫背気味に歩く、まるで影のような後ろ姿を、街の誰もが気味の悪い目で見送っていた。
 白い手袋をはめた、だらんと下がる長い腕の先には質のいい革の鞄がある。羽が双方に広がるマークが印字されており、男が骨取りなのだと、それを見て確信する。
 男は黒曜石のような真っ暗な瞳をしていて、覆い隠すように、青白い瞼は重くばちんと落ちる。そう見えるのは目鼻立ちがはっきりとしているからだろう。
 猫背気味の男は胸の前に黒い小さな壺を抱えていた。手の中に収まるほどの、艶々とした小壺は、男の体が揺れるたび微かにカチカチと音がなる。
 ひそひそと話す人々の間を割って——というより、彼が通ると人が避けるのだ——歩き、ぎょろりと反射的に、カラスのように視線を動かす。さっと口を覆った女性たちが目に入る。
 別段、腹が立ったわけでも、興味のあるわけでもなかった。ただ目が向いてしまうだけだった。男の神経質がそうさせる。
 石畳をこつこつ鳴らし、石造りの家の窓を横目で見る。昼の白い光が満ちているのに、どこも憂鬱な影が、部屋を隠していた。
 一つの家の前に立ち止まる。木のドアの前には白い幕が下がっていた。シルクの、滑らかな波は静寂を示すようにゆったりとしていて、鈍い光を反射していた。
 ドン、と男は拳の側面でドアをノックした。
「天使様をお迎えにあがりまして」
 男は見た目よりも柔らかく、ささやかな声でそう言った。どこか憂いを感じる、夜の雨のような声だった。
「カロン・ガンガーと申します」
 重たくドアを開き、訝しげに見上げる女性に男はそう告げた。女はひどく憔悴した顔をしていて、男をじろと見る目は窪んでいる。
 カロン・ガンガー。これ以上不吉な名前はないと、女は忌々しく唇を噛み締めた。
 どうか帰って、と言ってしまいたかった。しかし、女は習慣的に、ドアを押し開き招き入れる。顔は伏せたまま、男の尖った、黒の革靴が家に入り込むのを見た。
 家は静寂と、乾いた埃のにおいが広がっていた。小さな塵が部屋の中を舞う様子が、微かに入る日の光によって浮き彫りになる。通された場所はすぐ台所のようだった。カロンはカラスの目でじっと見渡し、奥の部屋のドアに目を向け、コツコツと、長い足でゆっくりとドアに近づいた。ドアの奥からは微かなすすり泣きとうめき声が聞こえる。
 女が後からついてくる気配を感じながら、カロンは部屋のドアに手をかけた。抵抗なく開いたドアの向こうから聞こえていた泣き声が、よりはっきりと輪郭を持って耳に届く。声の主は女だった。側に旦那と思われる体格のいい男が寄り添っていて、先ほどの女性は手伝いなのだとカロンは思った。
 裕福な家だったのだろう。
 天使がいる家ならば、そうだろうとも。
 カロンが立ち尽くす先には、ぐったりと大ぶりな翼に埋もれる少年の姿があった。
 翼を持つ少年は両親に囲まれて、床に横たわっている。輝くような柔らかな産毛に覆われた、まだ十も生きていないような少年だった。薔薇色だっただろう唇の色がくすみ、血が乾涸びてこびりついている。少年が呼吸をするたびにびゅうびゅうと小さく、体から音がなった。
 カロンは潰れた絨毯にくるまるような少年に近づき、重い翼を注意深く払いのける。内側にはべっとりと血がついていた。翼の骨格は少年の胸を貫き、その白い骨が、芽吹きのように見えている。
 カロンの手に、か細い少年の手が触れた。
 少年の、濁ったガラス玉のような瞳がカロンの姿を映す。弱々しい少年の頰には、涙の跡が染みついている。
 彼の胸に手を当てようと、カロンは荷物を置き手を伸ばした。突然脇から、女の手が伸びて、彼の手を強く掴んだ。最初、家に招き入れた女だった。
「坊ちゃんを連れて行かないでくださいませ。どうか、どうか、まだ、生きております」
 声は震えていた。高い頬骨に伝う涙が少年の羽根に落ちていくのを、男はただ見ていることしかできなかった。カロンは仕事を全うしたかった。本意であろうとなかろうと。彼の仕事は天使の骨取りだった。
 泣き崩れる女を、夫妻は抱きしめた。この手伝いは家族同然であり、少年の姉がわりであったかもしれない。そう思いながら、カロンはなるべく憐憫を悟られないように目を伏せ、枯れ花のようなよれた黒い髪にその瞳を隠した。
「彼は天の国へ戻るというだけです」
「そんなのは詭弁よ。神様なんて、居ないんだわ」
 手伝いの女は少年の羽根にしがみつき、流れ出るままにそう言った。
「おりますよ」
 カロンは静かに告げる。
 そうでなければ、こんな奇病があるはずはないのだから。
 横たわる少年を仰向けにし、カロンは薄い胸板を貫く骨を見た。
 少年はつめたい指先を、カロンの腕に伸ばした。
「かみさまのところへいくんだね」
 血泡混じりの、濁ったか細い声でそう呟いた。
「そうさ。天の国へ帰るんだ。君の役目は終えた。安心して眠るといい」
「かみさまは、またここに、来てもいいって、言ってくれるかな」
 消え入りそうな、細い声だった。
 カロンは何も言わずに、唇の端を吊り上げる。強張った頰を動かし、ゆっくりと目を閉じる少年の骨を摘む。常人では抜くことのできない固くはまっているはずの骨が、指先と揺り動かしだけで、つ、つ、と前にずらされていく。少年が安堵と苦痛の狭間に目を歪め、長い息を吐いた。
 く、と手首の角度をあげ、骨は途中で途切れ、羽根は少年の背中から離れた。天使の役目から解放され、少年は穏やかな微睡みのように事切れた。
 背後からはすすり泣きが聞こえた。いつの間にか、ギャラリーが増えている。天使病が終わる時、いつも人は、見届けることが我が役目だというように、鎮痛そうな、神妙な面持ちをしている。祈るものもいれば、軽蔑をするようにカロンを見るものもいた。カロンはただ少年の頰を包み、静かに目を閉じて祈りを捧げた。
 カロンは壺の蓋を開ける。錨のような骨は、壺の中に収まった。
 家の前には、カロン同様真っ黒な外套に身を包む集団が後ろ手を組み、黒い馬車とともに待ち受けていた。
 閉じた壺を、黒い集団に手渡し、カロンはその脇を通り抜ける。
「積みこめるかね」
「バラしてしまうか」
「馬鹿め、羽根は傷つけられない」
「ピンでつないでしまえばわからん」
 低い声が呟くのを聴きながら、カロンはまた、目を伏せた。胃が火傷のように痛む。大股で道を歩き、街角に姿を消した。

 天使病と呼ばれる、この奇妙な現象が起き始めたのはとある港町の赤子が誕生したことによる。
 寒い冬に産まれた男の子だった。
 肩甲骨が少し飛び出ていて、動かし方が奇妙であった。腕の動きの連動とは異なる、骨の動きが見えた。その赤子の産毛は真っ白で、特に背の産毛は、目に見えてわかるほど密集していた。成長するにつれ、その産毛は羽毛のようになり、肩甲骨の骨は皮膚を打ち破るかのような盛り上がりを見せた。さながらその見た目は雛鳥の手羽のようだった。
 不思議なことにその皮膚と羽毛は、その子供の身体と共存していた。気味悪がるものもいた。だが、次第に翼として形を成していくと、人々はその子供の愛らしさと真っ白な翼に魅了されていった。そしてその子供の産まれた家は、自然と裕福になり、幸福が舞い込むようになった。その子供の存在はまさしく、神が使わした天使なのだと、誰もが思い、幸福な家族を羨み、街ぐるみで天使の子を愛した。少年は健やかに、羽根も自在に動かせるようになっていた。少しの高さなら、滑空することも可能だった。
 一転したのは彼の咳が酷くなり、吐血をし時だった。
 翼は小さな身体を覆うほどに成長していた。翼の骨のみ成人の骨と変わらない太さ、頑丈さを持ち合わせ、少年の肺を貫いていた。
 少年の未熟な身体を追い越し、覆い尽くした羽根はじっとりと生命力を失い、生臭い、死臭を持ち始めた。
 天使は、肺の血に喘ぎ、激痛に耐え切れず死を迎えた。誕生日の前日だった。
 それから、「天使病」は次々と事例が発見されていった。十歳前後の少年少女にその症状が見られ、彼らは次々と死んでいった。
 骨取りの始まりは、医師が、最後に肺の骨を抜いてやり、子供を楽にしたことからだった。今ではカロンのような、教会に属する専門の人間の仕事となった。
 カロンは街を歩いた。長い外套から覗く尖った靴先が、鈍く光る。
 街の人間は、彼の姿を見ると頭を下げて、祈るそぶりを見せる。
 信仰を持つものにとっては、天使を迎えに来る、崇高な人間なのだ。反対に、目をそらしたり、睨みつけたりするものは、死神、おぞましい、と吐き捨てる人間だった。
 小ざっぱりとした景観だが、ところどころ、どの家も窓がくすんでいる。いくつか撫でつけた跡が窓についていた。数日前骨取りを行なった家だった。
 天使病にかかる子供達は、増加する一方だった。なぜ羽が生えるのか。幸福をもたらすその要因は、そこ羽根だと言われていた。なぜ少年少女ばかりなのか。原因も対処もわからず、ただ、骨取りの技術だけが受け継がれていった。
 湿気の含んだ空気が鼻をかすめた。鈍色の空は重い。うっすらと滲む陽の光が目を突き刺す。顔をしかめていると、ふいに影が路地を覆った。
 大きな翼が、空に広がる。カロンは目を疑った。真っ白な羽。それによく似合う夏の雲のような真っ白なワンピース。その少女が空を横切っていったとき、雲は連れ去られたかのように、青空がのぞいた。
 天使、が、生きている。
 カロンははっとして、少女が飛んで行った方向へ走った。
 少女は体躯よりも大きな翼を、上手に使っていた。滑空し路地に入り込み、追ってきたカロンの方をちらりと見て、幼い笑い声を上げて奥へと走っていった。
 路地は暗く洞窟のように濡れて光っていた。器用に羽を折りたたみ走る軽やかな少女の後ろ姿が、逆光に隠れる。眩む目を堪え、カロンは路地を進む。路地の向こうは広場だった。枯れた噴水の、丸い縁がひび割れている。
 少女は舞台に立つように、噴水の頂点に立っていた。羽の納める角度を決めるようにもぞもぞと動かし、首をかしげる。
「教会の人?」
 艶やかな果実のような、明るい声色だった。
「——そうだ」
 カロンは息を整え、つとめて冷静に答えた。少女の姿は彫像のように精巧で美しい。羽毛が逆光に輝く。
「私も天の国にいくの?」
「君は、」
 死んでいない、と口にしかけて、喉仏で抑えた。
「いくつだい」
 少女は中を見て、指折り数える。「もうすぐ十三」
 ぱっと顔を明るくし、向日葵のように笑った。カロンは驚きを隠せなかった。
 十三。天使病の子供がまれに年齢を超えても生き延びることはあるものの、こんなに長く、生きている子供は初めて見た。
「君は、その、親は」
 一時的な富裕でなく、金に余裕のある家ならば、多少、治療に金をかけることができるかもしれない。
「いないよ」
 当たり前、のようにそう口にした。
 カロンはますます、眉間に皺を作り、口元を引き締めた。
 この子は奇跡だ。これ程まで健康に生きながらえている。彼女には他の患者とは、異なる何かがあるのだろうか。
 自分はそれを、見極める必要がある。カロンは己の使命なのだと悟った。
「ねえ、かみさまってどんな人?」
 少女は尋ねた。
「君の名前は」
「ツィルだよ。教会の人は、かみさまを見たことがある?」
「残念ながらお目見えしたことはないけれど、たしかにおられるだろうね」
 カロンがそういうと、ツィルはふうん、と言って地面に降り立った。羽根がバランスを取ろうと羽ばたき、緩く開いた。その大きな翼は彼女を包む殻のように弧を描いている。曇天の隙間から差し込む光が透けながら街を照らす。
 彼女の姿はいつまでも見慣れなかった。羽根が羽ばたくたびに今まみえたように新鮮で、夢を見続けている心地だった。
 夢なのではないか。
 カロンはむしろそうである気がしていた。噴水の縁に腰掛け、体温がないまぜになった顔を皮膚を両手で覆う。
「体調悪いの」
 少女が顔を覗き込む。
「そうではない、そうではないよ」
「真っ青」
「元からこんな顔だ」
 この天使が夢でないというのなら。すぐさま教会に報告すべきだろう。
 彼はそう考えていた。保護。確保。警戒心を微塵も見せない彼女に悟られまいと、カロンは曖昧に笑みを浮かべた。
 知りたい。なぜ彼女が生きているのか。しかしそれは構造を暴くということだ。それは、彼女を殺すということになりかねない。生きている天使の羽根など、世間からの価値は分かったものではない。慎重な判断が求められた。
「ティモシー、しんじゃった」
 ツィルはかがみこみ、目を伏せた。柔らかそうな頰の膨らみに、少女独特の赤みを持っている。
 ティモシーとは、今日骨取りをした少年の名前だった。
「天に戻っただけさ」
 うそ、と少女は言った。
「あの子、ちっともうまく飛べなかったのに」
 カロンは顔を強張らせた。そんなつもりはなかったが、無意識に頰の筋肉が固まった。
「かみさまってどうして、こんなに意地悪なのかな」
 ツィルは頬杖をついた。
「どれだけ高くとんでも、ちっとも天の国に届かない」
「どこまで飛べるんだ」
 彼女は悩んで、ついと細い指を指す。
「隣と、隣の街まで見降ろせるくらい」
 そうか、とカロンは視線を下げる。
「どんな景色なんだ」
「迷路のおもちゃみたい。懐かしくて、さみしい気持ちになるの」
 少し遠くを見るような瞳は琥珀のように輝く。
 カロンの隣に腰を下ろし、ツィルは再び彼の顔を覗き見た。
「空って遠いのね」
「……そうだな」
 カロンは妙な不安と焦燥に、曖昧に顔を歪ませる。目眩のするようなこの感覚は何なのだ。足元が急に不安定になった気がした。
「またみんなに会えるかな」
 少女は足をぶらぶらとさせ、唇を尖らせて空を見やる。
 だんだんいらいらとしてきた。彼女は全て知っていてそう言っているのだ。そうに違いない。彼女は天使なのだから。カロンの焦燥は徐々に、嫌悪と色を変え始めた。
「君は」
 とっさに開いた口から言葉は続かず、カロンは再び口を閉ざした。少女がこちらを見ていた。瞳が傷のついたガラスのように鈍かった。
 ツィルは彼が何も言わないでいると、ふいに視線を前に戻して、長い睫毛を伏せる。
 カロンはまだ胸中の混濁がひどかった。彼女への同情や苛立ちが、表情を曇らせていく。立て直そうと俯き、広場には沈黙が広がった。
 風もなく、鳥の声もない。曇天が押し寄せ、薄っすらと石畳に影を落とす。
 馬車の音が聞こえた。黒い馬車が駆け抜けるのを、建物と建物の隙間で見た。
「一緒に行かなくていいの」
 少女は尋ねた。カロンは答えず、ただ馬車の音が遠のくのを聴いていた。
 生ぬるい風が吹き抜けて、頬を撫でていく。随分と脂汗をかいているのだと、初めて意識した。
 隣にふわり、と質の違う風が流れた。少女の風が羽ばたいたのだと気がついたのは、視線を向けてからだった。羽根はこんなにも静かに開くのだと知った。
 ツィルは彼の前に立ち、鷹のような瞳を向けて微笑んだ。
「あげる」
 ずいと差し出したのは白い、立派な一枚羽だった。
 カロンは戸惑った。真っ白な羽は微かな光に透け、幻のようにも思えた。
「あなたに幸せが来ますように」
 そう、軽やかに口にした。
 気がつくと、カロンは一枚羽を受け取っていた。柔らかい羽毛が風にたなびいていた。
 礼を言おうと口を開き顔を上げるが、言葉は出なかった。
 少女は満足げに目を細め、翼を大きく広げた。ふと膝を屈め、翼のはためきを強める。
 カロンは立ち上がった。行ってしまう。天使が、奇跡が、遠のいてしまう。夢だと思いたくなかった。
「神様は」
 口をついて出た言葉は、少女の視線を引き寄せた。
「神様、は、きっといるんだ。君が、この世界に生きているから」
 喉が辛かった。何故これほどまで胸が苦しいのだろう。ずっと突き刺さっていたような痛みが増す。泣きたかった。
 ツィルは少し目を開いて、また柔らかに微笑んだ。
「僕とこないか」
 咄嗟に、そう押し出した。自分が何を言っているのか、わからない。ツィルはまた少し、不思議そうに目を見開く。
 カロンは喉を動かし、一枚羽を握る指先を強めた。彼女は奇跡だ。彼女の存在はきっと、教会にとっても重要になる。けれどそんなことはどうでもよかった。決して、知らせを出すつもりもなかった。
 だがいつか、限界が来るかもしれない。そうなったら彼女の骨を取るのは自分だ。自分がいい。
「僕がついていきたい。君のいきたいところに」
 ツィルはまだきょとんとしていた。そしてこみ上げる、抑えきれない笑みを持って、カロンの方へ歩み寄る。
「私も、かみさまを信じる。面白い人と出会えたから」
 磨かれた琥珀のような瞳が、彼の顔を映している。ツィルは花のような香りがした。
「きっとあなたを幸せにするから」
 彼女が微笑む。
「名前を教えて」
 曖昧に舌がもつれるように、彼は「カロン」と掠れた声で答えた。少女は口の中で転がすように、名前を繰り返した。
「いい名前」
 そう言ってカロンの手から一枚羽を取り、彼の胸元のポケットに差し込んだ。
 カロンは笑んだ。曇天の隙間から覗く金の光が、黒い髪を飴色に染めた。

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