【小説】いずれも の 焼き芋

いずれも

   焼き芋

 真昼の白い光が、理科室の窓辺に差しこむ。まだ暖房が入る寒さではないため、薄ら寒い教室を温める眩しい熱に目を細め、今高涼夜は眠気と戦っていた。
 黒板を滑るチョークの音。昼食済みの午後の眠気。少し掠れた、低い気怠げな先生の声。なんと睡眠に適した環境だろう。
 少し走って目を覚ましたい。無意識のうちに足をばたつかせ、涼夜の意識は次第に一〇〇メートルのコースを走る。
 もっと速く。もっとバネを使って、身軽に。まっすぐゴールへと向かっていく。
 ずきん、と右の足首が痛んだ。
 不意に吹く窓の隙間風に身を震わせ、涼夜は目を覚ます。
 まだ痛む足首に目を向け、制服のズボンの裾をまくった。現実の足は、がっちりとテーピングがされている。
「では、いずれも、テストに出しますので」
 こつ、とチョークの置く音が聴こえ、涼夜は前を向く。先生は銀縁の眼鏡を外し、軽く伏し目がちのまま長身を引きずり出て行った。
「でたよ、『いずれも』」
 クラスメイトの女子生徒たちが、後ろでくすくすと笑い声を上げる。
 伊豆山連雲。化学担当の教師で、長身。おそらく独身。三十代であろう彼は、れんも、と珍しい名前と、彼の口癖から、あだ名がつけられていた。
 ——いずれも、と。

 涼夜の通う私立高校は大きな河川が近くにあり、外に出れば心なしか、少し涼しい風が吹く。歩いていくと道のすぐそばに河原がある。いまは秋深しといった並木が堤防沿いにあり、春になれば満開の桜が学校まで続いている。まるで学園ドラマのような風景が涼夜の通学路だ。
 ひょこ、ひょこと右足に負担をかけないようゆっくりと歩く涼夜の脇を、何名かの陸上部が風をはらみ、勢いよく駆け抜けていく。最後尾の一人は涼夜に気づくと、ひらひらと手を振った。
 弱く手を振り返す。その前に、彼は前を向いて、あっという間に去ってしまった。
 今日は通院の日で、涼夜は部活を休んでいた。
 前々から足首に違和感を覚えてはいたが、痛むわけではなかったため無視していた。マネージャーにもコーチにも言わずにいたが、それがたたったのか、先週のリレーの練習中に倒れた。右足が着地した際の激痛に、思わずバランスを崩してしまったのだ。
 すぐ痛みは軽くなったものの、熱が抜けなかった。ただの捻挫だと思っていたが、医者からはヒビが入っている、と告げられた。
 しばらくは安静にしなければならない。そう言われてはいるが、走っている姿を見ると思わず身体がうずく。それを引き止めるように、右足はずきんと痛み出した。
 その繰り返しで、涼夜はひどく、この足の刺すような、枷のような痛みを恨めしく見下ろし、立ち止まった。
 秋風が冷たい。少し頬が冷える。これから冬が来て、筋肉はますますほぐれにくくなる。神経の奥にトゲが生えたように、足はジクジクと痛んでいた。
 顔をしかめて鼻をすすると、ふいに焦げ臭さが鼻についた。出どころを探してあたりを見渡すと、河川敷に男の姿が見えた。ドラム缶が側にあり、そこが煙の出どころのようだ。
 男はたった一人でべこべこのドラム缶の前に佇み、幽霊のように俯いている。
 あの長身の細身には見覚えがある。
「伊豆山せんせい?」
 涼夜が呟くと、男は微かにこちらを向いた。伊豆山は生気のない三白眼でじ、と、涼夜の姿を捉えた。捉えたはずなのに、会釈もせず、にこりともしない。
 普段はやる気のない教師に思えるが、学校外で出会うと、どうも人間味を感じない瞬間がある。涼夜は少したじろぎ、「何してんの」とぎこちなく声を上げた。
 伊豆山は眉をひそめ、うっすら唇を開いた。疎まれているのか、と思い、涼夜は少し気分を損ねて口を結んだ。
「——降りられますか」
 真顔のままそんなことを、尋ねる。伊豆山は涼夜の顔をしばらく見つめた。涼夜は内心驚いていた。授業中でもこれほど、人と目を合わせているところは見ない。彼はいつも伏し目がちで、目を合わせようとしないのだ。
 煙に混じり、香ばしいにおいが漂う。涼夜ははっとして、右足に注意をしながら河川敷に降りていく。その間、伊豆山は目を逸らさず、ただ涼夜を見つめていた。伊豆山に近づくほど、煙のにおいと熱が強まった。
「何してんの」
 改めて、涼夜は尋ねた。もう伊豆山は目を逸らし、今度はドラム缶に目を向けていた。中はめらめらと揺れる炎と、落ち葉か紙か、とにかく燃えやすそうなものが詰められている。
「サツマイモは好きですか」
「え? 別に……それが何?」
「焼き芋を焼いています」
 ふっと何を考えているのか読めないつり目を流す。
「焼き芋?」
 なんで? と、涼夜は大きく首を傾げた。こんな学校のすぐの場で、しかも一人で。
「農園部の生徒が、くれたんです、サツマイモ」
 伊豆山はじっとドラム缶の火を見つめていた。よく見ると彼の手にトングが握られていた。
「いいの? こんなところで」
「あまりよくは」
 ないです、と伊豆山は返した。なので、と涼夜に目をやり、「どう言ったものかと思いまして」と口にした。
 直感だが、これは常習犯だな、と涼夜は思った。生徒に見られても、疾しいことという意識は薄そうだからだ。
「食べますか」
 ちらりと涼夜の顔を見た。
「いいの?」
 焼き芋。考えてみれば、久しく食べていない。それに出来立ての焼き芋など、なかなか食べる機会はない。そう思うとそわそわした。
「どうせ持ち帰るだけなので」
 伊豆山はカチンカチンとトングを鳴らしている。だが顔はまるで能面のように、目尻のしわひとつ出来ない。
 トングの先をドラム缶につっこみ、歪な楕円のアルミホイルを掴み出す。ドラム缶の後ろに隠れていた皿を取り出し、アルミホイルを置いた。トングで包みを開くと、濃い紫の皮が顔を出す。ふわりと甘く香ばしいにおいが涼夜の鼻をかすめ、思わず鼻をひくつかせた。
「熱いので待ちます」
「はあい」
 皿を縁石に乗せた伊豆山の言葉に伸ばしかけた手を引っこめ、涼夜は両脇の下に冷える手を忍ばせ腕を組む。
 屈もうとして、足首が痛んだ。小さくて唸り声をあげると、伊豆山はあたりを見廻し、少し離れた位置にあった簡易椅子を差し出した。
「使っていいと言われているので」
 畳んである椅子を開き、涼夜を座らせた。
「足は大丈夫ですか」
 伊豆山は焼き芋の方を気にしながらトングをカチカチと鳴らして尋ねた。そんなことを聞くくらいなら心配そうな顔くらいしたらどうなんだ、と涼夜は思う。
「先生に関係ある?」
 背に投げかけると、伊豆山は少し振り向きかけ、「それもそうですね」と言い放つ。
 あまりにもそつもなく返されてしまい、むっとした。けれどそれは単なる、八つ当たりでしかない。
「……冗談。全然よくない。椅子ありがと」
 どういたしまして、と伊豆山は返す。会話が終わると、トングの音と川の流れが耳に入る。並木の騒めき。鳥の声。波の跳ねる音。ずっとぼんやりしていたくなる。
 うっすらと降りてくるまぶたを擦り、涼夜は小さくあくびをした。ふいに空を見ると、夕陽は木々に隠れ、赤い光を放射しながら、夜に飲みこまれ始めていた。
 スマートフォンが鳴る。母親からの着信だった。
 そういえば、と通院の予定を思い出し、ちらりと伊豆山を見た。相変わらずこちらを見ない——と思っていたら、
「あっ! ちょっと! 何一人だけ食おうとしてんの!」
 軍手をはめ、アルミホイルに包まれた焼き芋を剥き、手につかみ割っている。
「……僕は慣れています」
 無表情には違いないが、少しばつが悪そうに唇を軽く突き出し、伊豆山は目を逸らした。
「ちょっとー! ずりい! 俺にも軍手貸してよ」
「駄目です。火傷しますから」
 アルミホイルから顔を出した黄金色の歪な断面からは湯気が立ち、風に乗って涼夜へ届く。そのにおいだけでずいぶん空きっ腹になった。立ち上がりたいが、踏ん張りがきかない。
 伊豆山は焼き芋を顔の近くに持っていくなり、大きく口を開けた。犬歯を覗かせ、熱いだろうに躊躇なく噛みつく。
 湯気を吐き出しながら食み、涼夜が茫然と見守るうちに、あっという間にひとつ。
 勝手に小食のイメージを持っていた。伊豆山が食べるところなど見たことなどなかったし、彼の口があれ程開くところだって、これまでなかった。
 意外な一面、というものを見た時は、こんな気持ちになるものだろうか。
 気がつくと伊豆山は二つめを開いている。まだ食べるのか。そう涼夜が思っていると、彼はまた半分に割り、片方を涼夜に差し出した。
「急がず食べてください」
 芋の断面と、能面の如く表情のない男の顔を交互に見つめ、涼夜はそろりとうけとった。アルミ越しにこもった熱が伝わり、即座に食べたら火傷するとわかる。
 ふうふうと息を何度か吹きかけて、頬張りたいところを押さえ、小さく先をかじる。熱い。鼻腔に甘さが漂い、口腔にはやさしい甘みが広がった。
「あっま」
「素晴らしい栽培技術です」
 もぐ、と焼き芋をかじり、易々と量を減らしていく伊豆山。本当に味わっているのか? と思うほどペースが早い。
 呆れて見ていると、スマートフォンがまた震え出した。今度は伊豆山も気づいたらしく、何も言わないが、涼夜の腿に置かれたスマートフォンを見つめていた。
 涼夜はその着信には出なかった。
「食べ終わったら、行くよ」
 そう伊豆山に告げ、芋の皮の部分を剥き、今度は少し大きくかじり取った。
「足にさ、ヒビ入っちゃってんだって、俺」
 むぐ、と飲みこんでから口にした。
「安静にしてろっていわれても、身体鈍っちゃうしなあ」
「……走ったんですか」
「走ろうとした、けど」
 涼夜は足を投げ出し、痛む足首を見つめた。
 重心が偏りがちだと前から言われていたことが、ヒビのせいでより自覚できた。走ろうとすると、ズキンとそこから一本細く長い針が刺さったような痛みが沸くのだ。
 怪我をしたのは一度や二度ではない。だが捻挫や打撲ばかりで骨に、というのは初めてで、どうしようもなく、不安になる。
「ねえ、せんせー。二度と走れなかったら、どうしようかな」
 なんて弱音を吐いて見たところで、この能面づらの教師に、何か気の利いたことを期待はしていない。それでも、だからこそ、弱音を吐きたいと思った。
「僕は運動が好きではないです」
 伊豆山はぽつりと口を開く。アルミホイルを丸めて乱雑にポケットにしまい、何を思うかわからない目を涼夜に向けた。
「一度、僕は過食で病院に運ばれたことがあります」
 過食、とその竹のような見た目に似合わぬ言葉に涼夜は顔をあげたが、その食いっぷりを見ればまあ、あるのかもしれない。
「それでしばらくは食事制限などかかってしまったことがありましたが、担当医の指示通りの生活を過ごしました」
 ちゃんと食べたいからです。伊豆山はそう口にした。
「その後良くなってから、はじめて贅沢をしたところ、解放感があって最高でした」
 我慢していた分の、最初の食事。最初の贅沢。
 確かにそれは、美味しそう。
 食事制限は涼夜もしたことがある。だがそれは健康な状態で、走るために適切なコンディションを作るためだ。大会後に少し贅沢をして、部員たちとバイキングに行った。やり切った達成感と、ある種の解放感。確かに実感できるものだった。
「きみの好きと僕の好きは違いますが、いずれも同じことじゃあ、ない、かと」
 伊豆山は押し黙ったあと、もたつくように口にした。
「……例えヘタすぎない?」
 涼夜はぽかんとしてから、腹を抱えて笑い、骨に響くとうずくまった。
「けど、そうかもね、我慢したらしただけ、楽しいか」
 いずれも同じ、かはともかく。彼が励まそうとしてくれたのはわかる。
 目の端に浮かんだ涙を拭き取り、頬杖をつき、焼き芋をかじる。
「急いでもいいことないか」
「はい。お陰で僕の口腔はべろべろに焼け爛れています」
「慣れてるんじゃないのかよ!」
 涼夜は思わず彼を仰ぎ見た。慣れてます、と伊豆山はいい、変わらぬ表情のまま、焼けた舌をベ、と見せた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?