【小説】飛来する夜
わたしが目を覚ますときは、いつも夕陽が隣にいる。
今日も保健室。重い瞼の下で目を動かすと、わたしの手を握る夕陽と目があった。
外は薄暗い。彼女は電気もつけずに、わたしの目覚めを待っていた。
「おはよう明衣」
彼女はわたしの名前を呼ぶ。きっと両親よりも彼女のおはようを聞いている。
重い体を起こし、夕陽の肩にもたれかかる。セーラー服の襟の、少しごわごわとした感触に顔を埋める。夕陽の柔らかなボブヘアーは清潔なシャンプーの香りがして、落ち着く。
「わたし、また眠っていたの」
「今日は三限目から」
「まだ、ましなほうね」
「そうね」
「運んでくれたの?」
わたしの問いに、夕陽はうん、と答えた。「いつも通り台車」
「ありがとう、いつもごめんね」
眉を下げると、夕陽は穏やかに微笑んだ。同級生なのに、彼女は世話好きで、親友なのにお姉さんみたいだ。
わたしは睡眠障害を持っている。
どこでも眠ってしまうし、それはわたしの意思に関係なく襲う症状で、気をつけるように、と注意されても、されるがままなだけで、一向によくはならない。
申請はしているものの、やはりクラスメイトにも、先生にすら、奇異の目で見られる。
せめて成績だけは落とさないように、成績優秀の夕陽のノートに世話になっている。
「さすが夕陽、先生目指せるよ」
彼女のノートを受け取り、中をのぞく。
惚れ惚れするほど整頓されたノートだ。マーカーで色分けされ、読みやすい丸文字が並ぶ。
「誰かさんのおかげでね」
夕陽は笑った。
「わたしが起きなくなっても、ノートは続けてね。厚かましいと思うけど」
「そんなこと言わないで、ごめん」
冗談のつもりだったのに、彼女はすぐ深刻そうな顔をして、わたしの腕を不安そうに掴んだ。
覗きこむ瞳は揺れていて、小さな唇がきゅっと紡がれた。
「……帰ろっか」
そう言って笑った彼女に、わたしもどう返事していいかわからなかった。
夜道を歩くのは危険だから、迎えにきてもらったほうがいい、と夕陽はいうけれど、せっかく起きているのだから、ちゃんと夕陽と歩きたいと思った。
静かな小道はじりじりと電灯の音がして、私と夕陽の砂利を蹴る音と、住宅街の明かりがあるだけだった。
「倒れても支えられないかもしれないからね。知らないからね」
夕陽は念押しするように言葉にし、じっとわたしをにらんだ。どちらかというと、心配するような感じで。
わかった、と返すと、彼女はばつのわるいように唇を尖らせた。
眠らないといいな。
わたしの意思ではどうにもならないのだから、祈るしかない。
「ねえ、明衣は夢を見るの」
夕陽がぽつりと言った。
「夢? うん……」
覚えているわけではないけれど、長い眠りの中で、うっすらと眠っているな、と意識を持つときがある。
「どんな? どんな夢を、見るの」
夕陽は歩みを緩めて、私の顔を覗きこんだ。化粧なんかなくてもきれいな顔。彼女は気にしているみたいだけれど、わたしは夕陽の、きりっとした目が好きだ。
夢と呼べるものかわからない。実際、「眠っている」と意識ができるだけで、みんなが語るような映像を、わたしは見ない。
「ずっと、夜を歩いているみたいな……」
しいて言うならそうだった。
空白。
黒い、空白に、波打つような靄が、見えるか見えないかでうごめいていて、その空間には際限がなくて、ただそこに立ち尽くしている。
そのすべてが夜のような夢は、雲が動くように流動的で、わたしが歩いているような感覚になる、から。
その夢の終わりには、行灯から覗くような赤い光が靄の隙間からさしている。わたしはそれに導かれて、目を覚ます。
「いつの時間も夜なの」
夢くらい、昼間でもいいのに。起きていられない時間の夢を、見せてくれたっていいのに。たとえば、家族みんなで行った遊園地の観覧車です見た青空と虹だとか、おばあちゃんちに行ったときの、夏の入道雲だとか。そういうものが、夢でも飛んできてくれればいいのに。
わたしがうつむいていると、夕陽がわたしの手を取った。
「夢に呼んでよ。わたしを」
「夕陽を?」
あまりに真剣な顔をするから、わたしは思わず笑ってしまった。
「わたしが起こすよ」
「夢の中でも?」
わたしが尋ねると、夢の中でも、と彼女は繰り返した。
「起きなくなっちゃうかもよ」
「ならそれで、いいよ。明衣がいないなら、夢の方がいい」
夕陽が握る手の力を強めた。
わたしは少し、胸の内に、夜の雲に似ているような、もやもやとした感情が沸いた。
「そんなこと、言わないで」
「なら明衣も、起きなくなるなんて言わないで」
夕陽はわたしをまっすぐ見て、声を震わせた。彼女の目は綺麗な宝石みたいだ。黒くて、まるくて、涙が滲むときらきらとしている。
「冗談、だから」
わたしは笑う。笑えているのだろうか。どうして少し、泣いてしまいそうなのだろう。
夕陽はふいに目を開き、顔を歪めてわたしを抱きしめた。わたしの肩に顔をうずめ、小さく喉を震わせている。石鹸の香りがする。少し太陽を吸った、柔らかくて清潔な、夕陽のにおい。
夕陽が泣くから、泣きたくなるのだ。
目の端から溢れる涙をこっそり拭いて、わたしは夕陽の背中を抱きしめる。
日に日に、眠りに落ちる間隔は短くなっている。それから眠っている時間は、長くなっていた。
わたしはいつか目覚めなくなる。
そんな予感がいつもあった。
最近は走るとすぐ息切れが出るし、以前よりも筋力も、なくなってきたような気がする。身体が、眠りを求めて仕方がない。眠りたいわけではないのに、薬もちゃんと飲んでいるのに。
眠っていると、そんなに死は、こわくないとさえ思う。……そう思わないと、起きていることさえ、つらい時がある。
いつわたしは、あの夜の世界からから逃げられなくなるのだろう。そんなぼんやりとした恐ろしさがある。お父さんやお母さんの、わたしが朝起きるたびに見せるほっとした表情、隠しきれないあの表情が、わたしは好きじゃない。大丈夫だと、うまくつきあっていこうと、言うけれど。
それでもわたしは、目覚めることを選ぶ。
生きていることを、選ぶ。
夕陽が泣くのはいやだ。
わたしのために、泣くのはいやだ。
夕陽はまだ、顔をうずめて鼻をすすっている。泣いてしまったことが恥ずかしいのだと思う。とても強い子で、とても優しいあなただから。きっとわたしの前で、泣くつもりなんてなかったのだろう。
「わたしは起きるよ。夕陽が、そばにいてくれるから」
頬を寄せると、うん、と夕陽は、小さくうなずいた。
空が、飛べたらいいなと思う。
滲む夜の空を見上げて、夕陽の雛のような体温を感じながら、わたしは思う。
夢の世界を飛び回れたら、きっとわたしは、夕陽にあいにいく。
眠る夕陽が寂しくないように、今度はわたしが、そばにいる。
街灯の光が眩しくて、ふっと目を閉じる。
眠くなった訳ではなかった。
わたしはただ、祈りたかった。
大丈夫、とかすかに呟く。夕陽の髪を撫でると、じんわりと温かい。
飛行機の音が聞こえた。真っ直ぐに、わたしたちの頭上を遥かに高く、遠く、過ぎていく。
大丈夫だ、とわたしは思う。
わたしたちはいつだって、まっすぐ進んでいくだけなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?