渦のなか uzunonaka

 狭いところは落ち着く。水音のする場所は絶対領域だ。目を瞑って、密着する金属質の壁に身を預ける。日差しはあまり強くない方が良くて、僕は裸のままがいい。
 服を着ていることが煩わしい。何も着ないままで生きてはいけないだろうか。中学くらいから思っていた。母に相談してみたが、「無理に決まってるでしょ。この日本で。世間体を考えなさい」というので、どうやら僕を日本から出す気はないらしい。僕も、そもそも考えたことはなかったのだけど。
 煙草がほしい。目の前に開けた風呂場をぼんやりと見ていた。風呂場の水気は、あまり湯以外は干上がっていて、喚起のために開けた窓から蝉の声がきこえる。光は真っ白だ。光には色がないのだから、正確には風呂場の反射なのだけれど、僕は、光は白いものだと思う。白が好きだ。だから、僕らの生活する空間は白いものであふれている。
「邪魔なんだけど」
 シドウが洗濯物の入ったカゴを抱えて立っていた。僕と真逆の明るい茶髪。両耳にピアスを二つ開けているけれど、僕よりもずっと立派だ。
「ノナカ。どいて」
「たばこ」
「俺は煙草じゃない」
 そういって、洗濯機と僕の隙間に、洗濯物を押し込む。赤のTシャツ。青の靴下。シドウはビビットカラーが好きだ。本当は若草色とか、パステルブルーが好きなくせに、派手な色で身を守っている、そんなシドウが僕も好きだ。
「洗濯機が壊れる」
 ホースをあまり湯に突っ込み、いよいよ僕を洗濯機から追い出そうとする。
「たばこ」
 シドウはカーゴパンツのポケットからセブンスターを取り出し、僕の口に一本差し込んだ。自分もくわえ、僕の煙草と先を合わせて、火をつけた。
「出るとき、スイッチ入れとけよ」
 シドウはカゴを置き、脱衣所に背を向けた。寝癖がついたままだ。
 僕は再び、洗濯機に体を預ける。
 苦い味が舌に広がる。肺に満ちた煙を、窓に向けて吐き出してみたが、そのまま風呂場に霧散した。

 僕とシドウは高校からの同級生で、今は同居人だ。
 お互いに仕事を見つけたことがきっかけだったか、どちらがその提案に乗ったか、というのはあまり覚えていない。シドウの驚いたような顔と、部屋を決める時によく見ていた、彼の横顔はなんとなく、覚えている。だから、提案をしたのは僕かもしれない。
 僕はカフェの店員。シドウは大手服屋の店員。お洒落な仕事に就いたもんだ、と、自虐みたいなことをシドウはいうけれど、飲み会の持ちネタであることを僕は知っている。
 それと、僕なんかと生きていけるような稀な奴。
 僕ほど面倒な同居人は、いないんじゃないかな。なんて思えるほど自負はしている。

「別に」
 シドウは出来合いの野菜炒めを口に運びながら、僕を見ているんだかどこを見ているんだか、わからない眼を向けた。
「僕がどれほど君の生活を圧迫しているか、わかったもんじゃないのに」
「それほどお前のこと考えてない」
 冷たい。とは言わないけど。シドウは僕が拗ねるのも、それほど傷ついていないのもわかっている。ただ一つわかってないのは、ほんとうは僕が少しだけ悲しくなっていること。
 僕の視線に気が付いて、一瞬目を向けるけど、何も言わずにすぐそらす。
「飯食えば」
「おなか空いてないんだ」
 にっこり笑って見せるけど、こういう時は、シドウは笑わない。別に構わないけど。
「仕事は」シドウは食べ終わった器を片付けながらきいた。
「普通にあるよ」
 ふっと口を緩める。その顔好きだ。
「飢え死にしろ」
 ———お昼、出るから平気だよ。
 また洗濯機に籠りたくなった。


『Café STAR‐MAX』の店内は明るい内装をしていて、世界の様々な飲料を揃えている。コーヒーだけでなく、紅茶やスムージー、スイーツや軽食がある。店内の配置は、見事に他の席と不快な目合わせをしないで済むようになっていた。
 野中創志は虚無だった。濡れ羽色の髪から覗く三白眼の眼は、長いまつ毛に覆われていた。憂い帯びた、整った顔立ちと制服の白いワイシャツが良く合っていた。彼のことは常連客には知られたもので、野中目当てで、バイトの応募にくる女性も多かった。
 野中の外面は良く、誰に対しても笑顔だった。その内を知れるものは少ない。
「野中さん」
 愛らしい声がそっと耳打ちした。
「今日、上がり一緒ですよね、ご飯行きませんか」
 そう声掛けたのは、同僚の相馬愛だった。ゆるくかけたパーマと、穏やかな目元と右の無きぼくろがマッチした、かわいらしい女性だ。
「夕飯ですか、同居人に聞いてみないとなあ」
 野中ははぐらかすように笑った。
「じゃあ、そのお友達もご一緒に」
 相馬愛は食い下がった。「同居人」という牽制にも動じず、「お友達」と言い切った。どこで知ったのか。
「えーと」野中が視線を彼女に向けると、相馬愛はにこりと笑った。いつの間にか腕もつかまれていて、無下にできない状況だった。
 手強い。野中の笑みは固くなった。こんなゆるふわ見た目詐欺め———そう思ったが、彼女はそれこそ狙いなのかもしれない。

『Update』というシンプルだが若者に人気の服屋に、森田獅童は勤めていた。勤務店舗は小さいながらも、シドウは本社の会議に呼ばれるほど優秀な人間だった。ファッションに関係することもあって、比較的髪色やピアスの有無が自由だったため、好きな格好ができる、という理由も含めて就職したのだが、基本的にシドウは優秀だった。
「シドウ」
 呼びかけに振り向くと、見慣れた同居人の顔があった。———その隣に、見知らぬ女性も笑っていたが。
「デートで遅くなるなら、メールでも良かったぞ」
 シドウはわかったうえで言っていた。ノナカは笑っているが、シドウにだけわかるように顔をしかめた。
「一緒に食べたいってえ」
 ノナカは、ヘルプを出していた。
「わーこの人なんだ! 同居人さん。わたし相馬愛っていいます」
 相馬愛はノナカの腕を離れ、シドウの正面に立った。
「ども、森田獅童です。同居人の」
「えー、しどう? シドウって中村獅童と同じ漢字ですか? すごーい!」
 相馬愛は、シドウの名札をみて喜んでいる。名前の何がそこまで面白いのか。もう高校時代で済んでいる、僕は。と無駄な対抗心が、ノナカの中にあった。
「いい? ごはん、一緒にして」
 ノナカは首をかしげて、シドウの顔をうかがった。
「別にいいけど」
 シドウは少し笑っていた。
 僕が困るときは、いつも笑っている。ノナカはそう思った。
「野中さんのお友達って、みんな顔面偏差値高いですねー」
 相馬愛の発言は、本当に天然なのだろうか、と考え込んでしまうものだった。


 女子というものは恐ろしい。あえて空気を読まない女子はさらに恐ろしい。相馬愛はシーザーサラダをとりわけながら、シドウのメールアドレスも奪い取っていった。
「女の子ってすごいなあ」
「ニコニコしてんなよ」
 僕の顔をみて、すごく顔をゆがめた。相馬愛は何も気にしない子だった。僕は職場でやりづらくなるのは嫌だから、ずっと笑っているしかない。だからシドウへのメアド催促も止めなかった。
「まあ、使わないよたぶん」僕はカーペットに寝転がった。
「だといいけどな」シドウはスマートフォンを伏せた。「それより、お前はそれでいいの」
「それでって?」
「そのままだと流されるぞ」
 その通り。
 僕は外面がいい、ノーといわない新入社員だ。このままもし彼女が、僕とランチやらデートやらに誘うのであれば、僕はあっというまに付き合っている認定をされてしまう可能性がある。うぬぼれではない。確信だ。
「僕よりもふさわしい人がいるよ———みたいな」
「押される押される」
「僕は実は———シドウと付き合っている」
「やめろ。俺を巻き込むな」
 シドウは僕の頭を蹴った。
「案外、ああいう子が合うかもしれないぞ」
「僕は別に彼女はいらないよ」
「老後の心配をしろ」
「シドウがいればいい……」
「お前な……」
 僕には無用なのだ。きらきらした遊園地のデートも、結婚式も、世界旅行も、将来の安定も、出世も、何もかもが、僕のためなら無縁のものだ。
「人のために生きろっていうなら、僕はシドウと生きたい」
 僕はシドウを見つめた。
「そうもいかないだろうよ」
 肩をすくめて、そう返された。
 そうもいかないのか。シドウがいうならそうだろう。そうは思いたくないけど。
 なら、彼女と付き合ってみてもいいかもしれない。なんたって僕とはまったく違うタイプで、気にしない人間だし、もしかしたら、シドウのいう通りうまくいくかもしれない。
「付き合ってみようかな」
「どうぞ?」
 シドウは優しく笑った。
 僕は相馬愛を受け入れることにした。それでシドウへのメールが行かないのなら。

…………
……


「で、駄目だったんだな」
 シドウは洗濯籠を持ったまま、僕の半開きの口に煙草を突っ込んだ。僕は全裸で洗濯機にうずくまっている。今日は水入りだ。久々に悲しいという気持ちだ。気がゆるむと涙がこぼれる。
「まあ、全裸で洗濯機に入る男は嫌だよなあ」
 シドウは笑わなかった。
「君もいや?」
「うーん」
 顎を撫でてうなった。僕は、シドウの気持ちを読めるわけではないから、返事を待つのが嫌だった。
「それより、何で終わったか教えろよ」
 シドウは眼の縁を擦って、洗濯籠を洗面台に置いた。

 相馬愛とそれなりに親しい仲になり、彼女の家で飲んでいた。思っていたよりもシンプルだった彼女の部屋は、僕の趣味に合っていた。彼女にもたれかかり、僕の話が聞きたいというから、話した。もしかしたら、僕のことをわかってくれるかもしれないと希望をこめて。
『死ぬなら海がいいよね。灰になる前でもいいし、灰になってからでもいい。死ぬなら海に落ちたい。崖から落ちると、どうしても風で地面に落ちたりするから怖いよね。だから僕、一番いいのはクジラに食われちゃうことだと思うんだ。丸ごと食べてくれれば、海も地面も汚れないんだもんね、圧倒的にきれい。でも死ぬために海に行くっていうのもなんだか、積極的な死って感じで好きじゃない。できれば消極的に死にたい。消えるみたいに死にたい。瞼を閉じたときに死にたい。目の前に迫る死とか見たくないじゃない。最終的に、あたたかくて、水があって、できれば狭いところに帰りたい。死ってのは母体回帰だよ。僕は母の腹の中で死にたい』
 目が覚めたら、彼女はいなかった。「さきに出てる」と書かれた紙と、鍵が置いてあった。それは使ったらもう、帰れってことだし二度と来るなってことだろうと、僕は知っていた。その日の僕は非番だったので、ふらふら家に戻ってきたのだ。
「そりゃ死生観の話ばっかじゃあなあ」
「だって聞きたいっていうから……」
 僕顔を膝にうずめると、体温がにじんだ水面が唇についた。煙草が口からこぼれて、水面に浮いた。このまま沈み込みたいが、僕の体格では、ここが限界だった。
「あふれるからやめろ」
「ぶぶぶ……」
 僕が沈み込む様子に、シドウはため息をついた。
「ずっといってるけど、お前って死ぬことしか興味ないの」
「興味ないっていうか、生きることに大義を求めても意味はないって思うかな」
 生きていることは、幸せだけれど、生きているから、それだけでいい。
 健康にこだわりもないし、明るい未来も望まない。誰もいない世界を見たい日もあるし、大都会の人込みで、自分はなんて小さいのだろうと感じて虚しくなりたいときもある。夢とか希望とかに溢れている、電光掲示板を眺めるみんなの姿を見ていると、頑張れっていっている、みたいな気持ちにはなれない。僕は、その輪にはいない。
 相馬愛も、「頑張れ」の輪の中にいる。そんな気がする。
 シドウは出会ったとき、僕と同じく輪の外にいた。
 何にも興味が持てないみたいな、どこを見ているのかわからない眼。思春期特有、といってしまえばおしまいだけど、入ろうと思えば、きっと彼は飛び込めた。
 僕は、そんなシドウを、引き留めてしまったんだ。
 仲間がほしくて。
 友達がほしくて。
 愛して、ほしくて。
 なんて。
 どうしようもないエゴで、好きな人を不幸にする。幸せな道を見失わせる。愛なんてそんなもんだろうと、誰かがいうけれど、だったら僕は、最後まで責任を取りたい。
 誰にも迷惑をかけないで、死んでしまいたい。煙草の副流煙が雲になり、その雲が雨になり、僕の肌にあたって、妙にあたたかい雫が満ちて、僕の羊水となってくれる。その中で死んでしまいたい。
 シドウは僕に手を伸ばしてくれるだろうか。
 無用の心配を、ちょっとした期待かもしれないけれど、僕は洗濯機の中で思い描く。
「僕が一人で死のうとしたら、シドウはどうする」
 小さなつぶやきだったけれど、シドウは反応した。
「さあな」
 僕を見透かすような、どこを見ているかわからない瞳。今は煙草の味しか考えていないのかもしれない。
 もしかしたら君も、生きることは無用で、どうあってもいいことで、どうなくてもいいのかもしれない。たとえ海が干上がろうと。猫が食べられる時代がこようと、そこで生きて、死ぬときは死ぬのかもしれない。僕が死ぬときも、きっと何もせずに隣で見守っている。何かをしてくれる君じゃない。
 だから、そう思うから僕は君が好きなんだ。
 君のことを考えていられるから、ずっと洗濯機に入っていなくても済む。
「君のこと、僕はほっとけないから、死ねないね」
 僕がそういうと、シドウは、少しだけ眼をそらした。
「僕のために、何かをしてくれる日が来たらきっとそれは僕ら、両思いだ」
 眼を細めると、シドウの顔がにじんだ。
 窓の外から日差しが入る。煙草の灰は、水面で渦を巻いていた。

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