【小説】殻箱

 目が覚める時は、いつも深夜だ。
 キッチンのテーブルに突っ伏したまま、薄暗い部屋を瞬きもせずに見つめる。時計の音がうるさい。振り子時計がいい、ときみが言って、アンティークショップで買ったものが、夜中の二時を告げた。
 最近はよく、眠れていない。
 首を少し上げると、倒れた缶ビールといくつか開いた睡眠薬が入っていた空の包装が、ピントの合わないままそこにある。
 それのすぐ向こうに、小さな紺色の箱があった。手のひらに収まるその箱は沈黙している。
 歯の隙間から、息のような声が漏れる。鈍痛で渦が巻く思考から、こぼれ落ちる記憶の声が、口から勝手にこぼれ落ちていく。
「きみのせいではないよ」
 彼女の父親に言われた言葉だった。
 また上司にかけられた言葉だった。
「仕方のないことでした」
 彼女の母親がうつむきながらそう言った。
 僕はそうは、思わなかった。
 彼女の死は必然でも偶然でも、なかった筈だった。
 よくある交通事故だと片づけられてしまうような、「よくある」事故だ。
 無免許の男が、二人乗りでバイクを走らせ、彼女のバッグを奪おうとした。ところが彼女の身体からバッグは離れず、十何メートルか、道路を引き摺った。
 その間に、打ち所が悪かったらしい。彼女は意識を失い、そのまま病院に着く前に、息を引き取った。
 警察に事情聴取を受けた際、犯人達は捕まったと聞かされた。まだ十八になったばかりの二人だった。
 何を思ったかも覚えていない。その時、二人を一生恨むことが出来ればよかったのだ。けれど、僕は、僕以上に人を恨むことは、出来なかった。

 僕は、あの時彼女の隣にいた。彼女が車道側を歩いていた。だから、ということじゃない。だけど、そのせいで彼女が死んだ。
 あの時僕が車道側にいたら。
 バイクが来たとしても、僕が轢かれた。僕が死んだ。僕が死ぬべきだった。
 頭痛がした。恐ろしく速い動悸に吐き気を覚えて立ち上がろうとするが、僕の身体は動かない。暗い部屋に、荒い息が渦巻く。自分が肥大と縮小を繰り返しているかのように、前後も上下もわからない感覚が全身を包む。
 渦巻く視界に、青い小箱が映る。歪んでいく。
 加減のわからない手をやたらめったらに伸ばし、その箱を掴んだ。
 視界が滲んでいく。そう思う間もなく、頰を伝ってテーブルに、涙が落ちていった。
 嗚咽を抑えられず、喉を締め付ける。小箱を握ったまままの手で、テーブルを叩きつけては、また、吐き気に耐えた。
 そうして茫然とする頃、僕はふいに視界を上げる。
 歪んだ暗い視界の淵に、白く、細い手が映りこんでいた。僕があげた指輪をはめた、見覚えのある左手だった。

 彼女は、よく僕の右手を触りたがった。
 手を繋ぐ時もわざわざ僕の右手を選びとるくらい、好きだということを体現していて、僕はそれがよくわからなかったけれど、きみが喜んでくれるから、満更でもなかった。きっとそれが良くなかったのだろう。僕が左側を選んでいれば。僕もきみの右手が好きだと、さらりと言えるのであれば、きみは僕の左手も好きになってくれたのだろうか。
「なんで右手なのさ。手なんて、別にどっちでも同じだろう」
「あなたが気づいていないだけ」
 彼女はそう言って、指輪を選んでいる間笑っていた。
 女性からの指輪なんて、と僕は言っていたけれど、「そういうの古い」と彼女は一蹴してしまった。そういう傲慢な部分が、優柔不断な僕にとって好ましいところだった。
 古いなんて言われても、僕が男らしいやつだったら、今頃きみは生きている。僕は僕が本当に嫌いだ。

 彼女の通夜から、毎日夢を見るようになった。
 夢、と言えるのかも怪しい、暗い靄の中に、きみとの思い出が溶けて、渦巻く映像が、永遠と流されている。幸せだった記憶は時として悪夢だ。きみが笑っている。僕の記憶の中だけで。いないきみが、笑っている。灰になって消えたきみが、僕の中だけで。
 いつしか、きみの顔は悲しそうになっていく。悲しい、だろうか。口を噤んで、節目がちに僕を見ている。
 ある夜はキッチンの入り口に、きみの気配を感じて目を覚ました。けれど、そこにきみはいなかった。
 ある夜は、僕の背に手を置いたきみの重みを感じて目を開いた。きみは、どこにもいなかった。息遣いさえもなく、僕の呼吸と、時計の音だけがした。
 きみはいるのだと思う。
 幽霊になって、僕のすぐ側にいる。
 僕を恨んでいるのだろうか。恨んでいて欲しい。幽霊は悔いがなくなれば成仏してしまうだろう。僕を恨み続けて、僕が死ぬまでそこにいて欲しい。
 きみは僕を呪い殺すだろう。そうしてほしい。そうでなければ、僕は生きている意味がない。

 今日、ようやくきみの手が見えた。
 僕はじっと、暗闇にぼんやりと輪郭を光らせるその白い手から目を離せずに見つめていた。
 身体は石のように重く、動かない。だらりと伸ばした手の先に、小箱は握られたままだった。
 ぎしり、と床が軋む音がする。きみの手が、視界からゆっくりと逸れていく。僕は眼球を動かし眼筋の許すまで、きみの姿を追おうとしたが、姿は見えなくなった。
 足音がする。きみがいる、気配がする。
 だんだんその気配は近づいて、僕の背中に、真後ろにあった。彼女そのものの気配だ。わかるのだ。きみの、息遣いだ。
 振り向いたらきみがいる。そう思うのに、身体は動かなかった。動かせないのか、動くのを拒んでいるのか、僕にはわからない。ただ、一度振り向いてしまえば、きみはいなくなってしまう。そんな気がしていた。
 気配は、少しずつ僕に近づいて、突っ伏す僕に覆いかぶさるようだった。
 息遣いが聞こえる。幽霊なのに、息遣いなどあるのだろうか。
「ホラーの定石でしょ。いますよ〜って怖さ」
 きみの声が思い出される。きみは、ホラーが好きだった。
「幽霊って、得体がしれないと思うけれど、怖がらせようって気持ちがあるよね。きっと、わたしが幽霊になったら、きみをうんと怖がらせる」
 そう言って、笑う。左手に指輪をはめたきみ。
 怖くない。きみが、ちっとも、怖くない。
 きみが来てくれて、僕はとても、嬉しい。
 このまま殺してくれないか。
 瞑れない目を、瞬くこともせず、僕は祈った。
 覗きこむ気配がする。
 どれほど僕を、恨んでいるだろう。死んでさぞ無念だろう。僕より長く、生きれたはずだろう。きみが、どれほど、僕を、嫌いだろう。
 どうかそんな顔が見たい。——なんて、ほんとうは。
 きみに嫌われることが、どれほど恐ろしいことか。
 目は瞑れない。僕の眼球は、きみの揺れる髪を捕らえた。
 僕の背中を押しつける手のひらに体重が乗せられ、きみの顔が、覗きこんだ。
 僕は、大きく目蓋を開いた。
 きみの顔は、期待していたものとは違う、とても穏やかなものだった。

 朝を、思い出した。
 僕は二日酔いで潰れていて、同じように、テーブルに突っ伏して迎えた朝に、眠っていたきみが起き出して、僕の顔を覗きこんだ。
 眩しい朝日に、僕はまぶたが開かなくて、一瞬、きみが微笑んだのを見て、起きるのが面倒でまた目を閉じていた。
 きみは、僕の右手に触れた。
「気づいてる?」
 そっと僕の耳元で、囁く穏やかな波のような声。僕はとても幸せだった。
 幸せだった。
「あなた、考え事をする時、いつも右手が、唇に触れているの」
 少し照れたように笑う。
 きみの体温が離れて、それから、コンロに火をつける音がする。朝の支度をするリズミカルな音たちが、きみが料理をする姿をありありと思い浮かべさせる。
 起きなくてもいいや、と僕が思っていると、ふときみの声が振り返って、
「起きてるでしょう」
 と、言ったのだ。

 うん、起きるよ。

 返事をすると、きみの、優しいため息が、少し離れて聴こえる。
 眩しい光が、目蓋を通り抜けて、僕の瞳をこじ開けていく。

 振り子時計の甲高い音が鳴った。
 四回。
 はっきりと僕は、目を開いていた。
 薄明かりの差すキッチンには、誰もいない。僕しか、いない。
 身体は動くようになっていた。僕は呆然と身を起こし、額を強く撫でた。
 ふと、指に違和感を覚えた。それからテーブルに目を向ける。
 僕は指と、その先に視線を交互に向けた。
 蓋のあいた空箱が、テーブルの端に転がっている。
 僕の人差し指には、きみが選んだ指輪がはまっていた。

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