【小説】PIP
ベランダに出ると、もう日が傾いていた。薄暗い青が空に広がっている。何だかんだ見慣れた景色だが、改めて眺めると感慨深い。煙草を一本雑に取り出し、比住慶太郎は考えた。
重たい黒髪を煙とともに吹き上げ、少し蒸した風に乗せる。
「なあ、煙草の箱増えてない」
ガラス戸を開け、同居人の由井要が額の汗を手の甲で拭きながら顔を覗かせた。
明るい髪色をした、すっきりとした好青年というような印象を持つ彼とは、長年のつきあいがあるが、よくもまあ自分のものでない荷造りなどしてくれるものだ。比住は煙草を加えたまま振り返り、少し苛立つ好青年を見た。
「そう?」
手すりに寄りかかり、煙を吐き出す。
「もとからこんなもんだったよ」
「ていうか、空のライターも増えてるけど」
由井はビニール袋に詰まった百円ライターを持ち上げ、気怠そうに比住の前に差し出した。
「あ、捨てていいよ」
「捨て方がわかんないんだって」
短くため息をついて、由井は顔をしかめる。
「お前さあ、本当に禁煙しろよ。壁黄色いんだけど」
「いきなりは無理だって」
煙草を咥えながら、比住は腕組みをして笑った。
「じゃあ、減煙」
「減煙ねえ」
煙草を吹き捨て、由井を通り抜け、自分のスペースががらんどうになっている様子を見た。
「無理かなあ。無理だなあ。俺は煙草を愛しているから……俺の命だから」
「短命してんだよ」
「わかんねえだろうね、お前は」
へらりと口を歪めると、白い煙が漏れ出す。
由井はますます眉根を寄せていたが、スウェットのポケットを探り閃いた顔をした。
「じゃあ、こうしようぜ」
白い小さなサイコロを取り出し、挟んだ指先で揺らす。いつだったか、ボードゲームで使ったものだ。
「この出た目だけ。今日吸っていい本数」
比住は呆気に取られ、思わず口を開いてしまった。下唇に煙草がくっついたのを剥がし、指に挟む。
「それ六本が限界じゃね? 嫌じゃん」
「六本でも多いんだよ」
じとりと目を向ける由井に、比住は比較的真剣な声で、ひどくふざけた表情を見せた。
「わかる? 一日にトイレ行く回数決められるのと同じだぜ」
「いや、それとこれとは違うだろ」
ライター入りのビニール袋を比住に押しつけ、腰に手を当てて彼は得意げに笑う。
「これで習慣づけていけば、ニコ中もなくなるだろ」
比住はビニール袋をちらりと見ては、由井の信じ切った顔と見比べた。
「しかし俺だけその制限がつくのは、不平等だと思うけど」
「じゃあ、いいよ。俺にもなんかつければ」
ふん、と鼻で笑い、比住のつり目を見返す。
「いったね? それなら」
比住は煙草を咥え直し、サイコロを奪って、部屋を指さした。
「出た目の数だけ、鏡を見てよ」
「えっ」
由井は絶句して、じわじわと眉根を寄せて険しい顔をし始める。それに構わず、比住は続ける。
「六が出たら、六回。じっくり自分の顔を見る。目と目を併せて」
「……」
ひどく顔をしかめ、顎の下に皺を寄せる。恨みがましい顔は、己の提案に対してか、この目の前で余裕げに煙草を吸う男に対してかはわからない。
「それはつまり、数が少ないほど俺が得するし、多いほど慶が得するってわけか」
「そういうこと」
煙草を携帯灰皿に揉み消して、比住はほぼ見下すような角度で由井を見た。
「身だしなみは衛生面として大切だよ。煙草よりもね、大事だよ」
「ぐぬ」
「習慣づけていけば、自分嫌いも直るんじゃない」
「別に嫌いじゃない」
「ああそう」
比住はサイコロを振り、ベランダの床に転がり落とす。小さな音を立ててサイコロは回転し、角に当たって止まったのを拾い上げた。
サイコロの目は、四を示していた。
「俺はこれ、三本目」
煙草の箱を振り、一本取り出して、また咥えて火をつけた。
「お前は何回目?」
そう尋ねると、由井はしばらく石像のごとく止まっていたが、やがて無言で部屋に入り、洗面台に向かっていった。
「一! 二! 三! 四!」
とベランダまで、少し籠もった声が聞こえる。それからすぐにずかずかと足を進め、ベランダに帰ってきた。
「ちゃんと見てないじゃん」
「嫌なんだってほんと」
長くため息をつき、鼻頭を指でしきりに撫でる。
「そばかすがそんなに嫌かねえ。チャームポイントだと思うけど」
そこまで目立つものではない。むしろ、それが一番いい味を出しているのだろうと、比住は常に彼にいうのだが、彼は鏡をみようとしない。外出時は、比住に服や髪など「変じゃない?」と尋ねるのだ。
由井は険しい顔で、意気消沈していた。
「やめろ」
「嫌いじゃん」
半笑いで口にしても、彼は口を紡ぎ、何もいおうとしなかった。
比住は煙草を消し、由井の脇を通り抜けて、ふらふらと洗面台へ向かった。
部屋はすでに薄暗く、洗面台も電気をつけなければよく見えない。
暗闇に映る自分の顔は、目つきの悪い能面のようだ。この顔でも見れるのだから、もし由井の顔なら、自分ならいくらでも顔を見ていられるだろう。
「そんなに嫌かねえ。自分の顔見るの」
「いいだろ、別に」
鏡の向こうに、柱から覗く由井が見えた。まだ機嫌はよくないらしいが、ちらと比住に、窺うような視線を向けている。
「俺はかなしいなあ」
「何が」
少し刺々しい声に対し、比住の声は柔らかかった。
「友達がさあ、自分のこと嫌いっていうのは」
少しだけ間が空いて、由井は背を向けて答える。
「だから、最近はいってないじゃん」
比住は振り向き、壁にもたれる彼の背中を見た。少し振り返りかける居心地の悪そうな友人に近づき、上から覗いて、サイコロを手渡した。
「ほい」
由井は比住を見上げ、サイコロを握る。問いかけの視線に比住は笑った、。
「振ったら出目、教えて」
「本数本当に守る?」
「きみがやるなら」
同じ数だけ、鏡を見るなら。
しばらく無言になり、その場から動かない由井をよそに、少しこざっぱりした部屋を歩き回った。
「……別に、出てく必要なくね、お前」
ぽつりと由井が、呟く。夕闇に紛れて、彼の表情はよく見えない。
「しょうがないじゃん。きみのお母さんが直訴しにきたんだぞ」
ヤニカスとはつきあうなってさ、と比住は喉から笑う。
「ウケたわ。こんだけでね」
「そんな小言どうでもいいと思うけど」
「まあ、ね」
確か二人ともにいい大人である。健康を害すも害さないも、個人の自由だと思う。
それでも比住は承諾した。渋々よりも、快諾だ。
「いい機会だし」
「何の」
「きみの」
由井は顔を上げる。薄明かりのなかで、訝しい表情をしていた。
比住は何やらおかしくて、笑いたい気分になった。心がどこか、さみしくなってしまいそうだった。
「俺は要のこと好きだけど、特に顔が好きだよ」
はっきりとした二重と、すっきり通った鼻立ち。そばかすがあることで、強気な眉の印象が柔らかくなる。こんなにも人に愛される顔をしているのに、こいつは俺を通して、顔を見ている。
それではあまりに、窮屈だろう。
「きみのキャラクターにあってる」
「キャラって、何さ」
呆れたように由井は笑った。
「キャラは大事だよ。煙草の次に」
「あんまり重要じゃないな」
由井は立ち上がり、比住に近づいて、残り少ない煙草の箱を奪った。
「煙草やめろよ、絶対」
「努力してみる」
目を逸らして肩をすくめると、由井にスネを蹴られた。
それからすぐ、比住は別のアパートに住所を持った。
比住は、またベランダのある部屋を選び、そこで煙草を吸っている。
夏の日差しに変わる青空を見上げ、長く煙を吐き出し、携帯を見る。
彼からは毎朝報告として、出目と写真が送られてくる。今日は六の数で、写真も六枚、添付されていた。
むっつりと険しい顔で鏡に映った由井の写真が、連投で届く。いくらか、視線が鏡の方を向くようになった。
少し笑って煙草の最後のひと吸いをして、はっと呟く。
「あ、七本目だった」
白い煙が、青空にそびえる入道雲に吸いこまれていった。
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