備忘録 小説ってなんだ?


お久しぶりです。
スランプに陥り、というか、書きたいものが全くなくて、何も書けていませんでした。
めちゃくちゃ悩んでいて最近気づいたんですが、わたしは小説を書いていませんでした。
ずっとです。
ずーーーーっとです。
小説「っぽい」ものを書いていたのだと、最近になってわかりました。
なぜ「ぽい」のかというと、世間一般の「小説の意義」みたいなものはまるでないからです。
わたしの話は結局結論が出ないものが多いな、という気づき。「意義」に書きたいものなんてないのだ、ということの気づき。
わたし、小説書いてない。
これはあくまでわたしの気持ちなので、実際どうだかわかりません。
純文学というには軽く、現代小説というにはテーマを持たず、キャラクター小説というには浅く、時代小説などを書けるほどの知識もなく。
わたしは何を書いているのだろう?
小説というものはなんなのだろう?

わたしがスランプに陥った原因には、「型にこだわりすぎた」こと、「書きたいことがない」ということが、あると思います。

「型にこだわりすぎた」
わたしは昔から、勢いで小説を書いていました。オタクだったので、小説以外からもアニメや漫画、映画などで「起承転結」はしみついていましたから、「なんとなく」「それっぽい」ものを書くことができました。それが仇になったともいえます。
「それっぽい」が書けるから、その「仕組み」を改めて理解するのに苦労しました。いまもしています。
セーブザキャットの法則や作劇論、脚本術や構成について、一時期本を読み漁っていました。
なるほど! 腑に落ちた、いや頭では理解できたけれど、それを自分の文章に落としこむのがまったくできずに、落ちこみのスパイラルに入っていきました。
わたしは一番「危機」、「全てを失って」しまう瞬間を書くのが苦手です。苦手というより、それを客観的に「危機」とは捉えづらいのです。
そもそも、わたしは尺度を間違っていたような気がします。ハリウッドの脚本術を追っていたせいか、「危機」と「失うもの」はでかければでかいほどいい! みたいな気持ちだったのですが、そんなもの書けません。
日本映画は、すべて失う前に救います。(大きな流れは)その法則がけっこう共通しているなので、「ハラハラ」を安全に楽しめるところがあるのではないかと思います。
失うものの尺度を、「何を書くか」の規模とあわせないと、崩壊して身動きが取れなくなるな……と、最近の気づきです。

「型にこだわりすぎていた その2」
小説は、地の文、セリフ、展開で構成されていると思います。
世の中の創作物を楽しむとき、わたしたちは「はじめから」読みます。
「はじめから」はじまるのだと、思っていたのです。受け身から始めた真似事なのだから、そうなるのも当然です。
だから、小説も「はじめから」「順を追って」「行ごとに」書くものだと、無意識にこだわっていたようです。

プロットを書くこともわたしは苦手です。というのも、外組だけをみていた時期がながかったのだから、その中身がどうなっているかというものは、本当に理解に苦しみました。似たような設計図や部品を作ることができても、不良品がほとんどでした。いままでよく動いていたな。

これは「こうあるべき」という型にとらわれていた、というところ。
セリフだけ先に書き出すとか、書きたいところだけ先に書く、とかは、本当に最悪なことに、「悪手」だと思っていました。苦肉の策。苦し紛れ。そんな感じです。
一度大学の時、その手法で書いたことがありました。その作品はかなり褒められたのですが、私は手応えが全くありませんでした。

あまりにも、書くのが楽だったからです。

「え? ほんとにこれでいいの?」と思い、しっくりこなかったのです。
小説って、苦しんで書くものだと思っていたから。
アイディアを考えることも、構成を考えることも、なにより執筆も。全部全部苦しむことが「楽しい」のだと思っていました。なぜならわたしは文豪が好きだから。苦しんで苦しんで、世に名作を生み出していたから。そういうものだと思っていました。

でも今、こうやって自分がこだわっていた手法こそ「悪手」なのだと気づきました。外見から得た情報の、真似事にずっとこだわっていた。リソースは割くべき。手間を省けるなら省くべき。
かわりに、もっと拘らなければならないところに力を入れる。

わたしは器用な方ではありません。シングルタスク人間です。

小説は「文字を書く」だけのように見えるけれど、その下にいろんな作業が沈んでいます。わたしはその作業をしながら、まったく今まで気づいていなかったのです。愚かです。

「こうでなければならない」という変なこだわりは悪癖になってしまう、ということを、常に思い返そうと決めました。(すぐに忘れるかもしれん)


「書きたいことがない」
書きたいことがありません。
というのは、コンセプトとか、意義とか、テーマとか。そういったものを決めるのが、とても苦手だからです。
一貫性がなければ、小説は崩壊します。
わたしの文章は感情に支配されていると思います。エモーショナルを優先し、描写の美しさを優先し、都合の良い展開を「よいもの」としてしまいます。
これも先に書いた「型にこだわりすぎ」というところに当てはまる悪癖です。

わたしが好きな作家の文章は美麗な方が多く、その描写の素晴らしさに惹かれて、わたしも書きたいと思ったことです。
また、純文学が好きです。純文学を「感情的」だとかいうつもりはありませんが、純文学で得る「エモーショナル」部分、つまり受け身で得た感覚に突き動かされ、またもや「真似事」を続けていたように思います。

書きたいこととか、ものとか。
そのテーマを、コンセプトを、みんなはどうやって見つけ出し、どうやって言語化しているのか、わたしは不思議でなりません。

企業でもテーマだとかコンセプトだとか。プレゼンの際に必要になります。

だからまあ、小説の意義ってもしかして商用プレゼンなのか? と思い始めたこともあります。
悪いことではないと思います。明確な方がいいので。
わたしはその明確に、求められているテーマを把握するのが苦手です。
「結局何が書きたいの?」と気かけると、「パンケーキ食べてるところが書きたくて……」になってしまいます。そうじゃない。そうは分かっていても、言語化することができませんでした。

わたしは、未だにこの部分を明確にできません。テーマ、コンセプト、調べても全然覚えられません。

だからまだ、「書きたいことがない」ということは脱却できていません。

ただ、キャラクターが動いているところを見るのは好きです。動いて、どうなっていくのか、見届けるのは好きです。
多分私はまだ、やっぱり表層しか撫でられていないまだまだ受け身の人間です。

発信側ではなく。でも受け身にもなりきれず。
宙ぶらりんの「ぽいもの」を書きます。
けれど、今はそれでいいかもしれないと思いました。だってわたしは、わたしの書く「ぽいもの」が好きです。いまは、それでいいと思っています。

わたしにとって小説は、自分が見ることのできない世界を体験する場所でもあります。

そんな体験はわたしは提供できないけれど。「ぽいもの」の中に生きるキャラは、話は、わたしの体験しないことをしてくれる。

「ぽいもの」がわたしの、らしさにいつかなればいいと。

すこしばかり、願います。

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