蟻の山
一番の親友はみなちゃんだった。
どうして友達になったのかは覚えていないが、ほとんどの友達がそういうものだから、彼女とも一緒に遊んでいた流れで友達になったのだろう。
みなちゃんの小さな頃は、歯の抜けた野生児みたいな子だった。いつでも外を駆け回って、虫を触るのも平気で、力も強くて男子と戦っても負けなかった。
けれど、とても頭が良かった。教科書はすらすら読んだし、急なテストがあっても一番に解いて、得意げに体を揺らしていた。私はそれを後ろの席で見ながら、まだ解き終わらない算数の計算を焦って必死でやっていた。
クラスで目立っていたわけじゃなかったけれど、なんとなく彼女は、特別だった。
高校生になって、みなちゃんはとても綺麗になった。歯抜けの野生児みたいな面影はまるでなくて、長くて艶のある黒髪がよく似合う、白い柔肌の、淑やかな少女になった。
私はプール教室に通っていたので、髪はいつも傷んでいた。
「のんちゃんは明るい色が似合うよ。日向のなかにずっといるみたい」
みなちゃんはそう言ってくれた。嬉しかったけれど、やっぱりみなちゃんの黒髪は艶々していて綺麗だったから、複雑だった。
みなちゃんは自由だった。高校生になっても、野生児じゃなくなっても、やっていることは小学生の頃とあまりかわらなかった。夕日に向かって急激に駆け出してみたり、川原まで行って、叫んだり、小学生に混じって鬼ごっこをしたりした。時々うずくまって、蟻の行列を観察したり、その列の流れを指で止めたりしていた。
「噛まれるよ」
私は虫が触れなかった。こわごわと彼女の後ろから覗きこんで声をかけた。彼女はうずくまったまま、んん、と生返事を返した。
夕暮れ時、烏の声がやかましく響く。オレンジ色の光に包まれても、彼女の髪は黒かった。昔、川原で拾った、真っ黒なガラスの破片を思い出した。何色にも影響を受けない黒。彼女は決して割れない、ガラスの塊。
「のんちゃん、虫が怖い?」
「怖いっていうか……嫌じゃない、普通」
「そう」
みなちゃんはそう言ったきり、黙っていた。別に怒っているわけではなさそうだった。となりに屈んで、蟻の列を見る。黒い、連なった粒が足を生やしてちょろちょろ動いている。やっぱり見ていると無意識に顔を固くしかめてしまう。
蟻の列は、小さな山を作っていた。少し目を凝らすと、黒い山の下に、つやつやとした緑色の足が見えた。節とギザギザした形が、バッタだとわからせる。
「うわ」
思わず声が出た。ふと隣を見ると、みなちゃんの黒くて大きい目が、私をじいっと見つめていた。
「蟻ってさ、こうやって、自分たちより大きな生き物も、食いつくせるんだよね。千切って、噛み切って、巣に運んでいくんだよ」
「やめてよ」
私が顔をしかめると、みなちゃんは小さく唇の端をあげた。すっかり生えそろった真っ白な歯が覗く。腕に顔を埋め、黒髪を垂らす。
「のんちゃんは、残酷よね」
「どっちが。そんなの見てるみなちゃんの方が、よっぽどそう」
なぜか、ひどい動揺覚えた。彼女の顔を見ないように立ち上がる。
「のんちゃん」
彼女は私を、いつも大事そうに呼ぶ。
「あのね、私はいつでものんちゃんの幸せを願っているよ」
どうしてそんなことを彼女が言ったのか、私はわからない。
蟻の山から覗く、バッタの複眼が、つやつやとして、いつまでも私を見ている気がする。
のんちゃん、は、水音、と書いて、みのんと読む私のあだ名。
同じ名字で、「みな」と「みのん」で、席が近いことが多かった。
あだ名をつけてくれたのは、小学生の時同じクラスだった、女の子だったと思う。確かクラスのリーダーっぽい子だった。小学生でつきあいは途絶えてしまったから、名前は思い出せない。
彼女よりも、みなちゃんの方が「のんちゃん」とよく呼んでくれている。長年一緒の友達なのだから、それはそうかもしれない。
大事そうに名前を呼ばれる時、私は少し身がすくむ。
放課後、わたしは一人で掃除用具を片付けていた。誰もしないから。私が片付けると、同じ掃除担当のみんながそう思ったから。多分そう。
教室は夕焼けに満ちていた。どろりとしたオレンジの光。私の影を濃くする。黒い影に目を落とす。
みなちゃんは見透かしてくるような瞳を持っている。真っ黒なガラスの瞳。時々何を考えているかわからない。そういうところをちょっと怖いと思ってしまう。友達だから、そういうことはあまり思いたくないのだけど。
いつも幸せを願っているよ。
あの言葉が時折過ぎる。ただの戯言に過ぎないのかもしれない。けれど夕暮れに佇む彼女の姿がこびりついている。蟻の山が彼女の幻像に重なっていく。無残なバッタの屍骸。フラッシュバックのように浮かぶ。
私は、あれらを怖いと思っているのだ。
食い尽くす蟻が、みなちゃん。
……じゃあ、バッタは?
惨めな、下敷きの、死骸は。
残酷なものを愛する彼女にとって、私は。
「のんちゃん」
声をかけられた。私は知らずのうちに身体に力が入ったらしく、振り返る瞬間に、肩の力も抜いた。
「かーえろ」
みなちゃんが目を細め、にいと笑みを浮かべていた。
みなちゃんは、その日はまるで大人しかった。雑誌のあのアイドルがカッコいいとか、ケーキバイキングに行きたいね、だとか、明日のテストがどうだとか、進路はどうしようか、なんて話をしながら、まっすぐ駅に向かって歩いた。
「みなちゃんとこんな話するの、なんか珍しいね」
「そう? 楽しい?」
「うん」
楽しい。間違いなかった。彼女が同じアイドルに興味を示しているのも嬉しかったし、同じように、将来に悩んでいるのだと思うと安心した。間違いなく彼女は私の、親友なんだとしみじみ馴染んだ。
「こうやってずっと、楽しくいたいね。大人になったらお酒も飲んで、一緒に泊まりで遊園地にも行こうね」
私は笑う。彼女も笑う。長い睫毛を埋めて、白い歯を見せる。
駅のホームにはもうすでに、人が並んでいた。吹き抜ける風が足を撫でてぞくりとする。
「ねえ、のんちゃん」
隣に並んで立った、みなちゃんが声をかけた。
なに、と顔を向ける。みなちゃんのガラスの瞳がきらめいて、私の姿をうつす。
「私ねえ、この先、何があってものんちゃんの味方だし、あなたの幸せを願っているよ」
「またその話?」
嬉しいけど、と私は視線を逸らした。なんだかむず痒い気持ちになる。
「けどねえ、私さ、のんちゃんが幸せになるの、隣で見てられないんだ」
え、と顔を上げる。笑みを浮かべるみなちゃんの瞳は潤んでいた。今まで見たこともない表情。親友の私が、見たことがない表情。上気した薔薇色の頬。ガラスの瞳は、ひとの、生きた、少女の、眼球。まるで好きな人にフラれたみたいな。
「みなちゃん」
「のんちゃん、私ね、あなたの心に残りたいの」
みなちゃんは黄色の線の外側に立った。
遠くからごぉぉと、風の音が、聞こえる。下がって、と駅員さんの声。反響しないでかき消されている。
みなちゃんは、めいいっぱい笑む。細かく揺れる頰の皮膚を保とうと、白い歯をくいしばる。
「のんちゃん。残酷なあなたが好き。いつまでも、幸せでいて、私のこと忘れないで」
濡れた瞳。どこかで見た記憶がある。近く列車の音が、その記憶を阻害する。でも、はっきりとしたイメージが浮かんだ。
みなちゃんが、ホームから足を離した瞬間。闇に吸い込まれて、艶やかな髪が散らばって、顔を覆い尽くす瞬間。
蟻の山だ、と思った。
手を伸ばした。伸ばした手を通り過ぎて、彼女の指のかけらが、飛んできた。
鳴り響くブレーキの音と、悲鳴が重なる。
関節が力なく曲げられた指は、バッタの節足のように死んでいる。
私はじっと、立ち尽くしてそれを見つめた。
血の飛沫が靴先にかかっていた。
周りの人たちは、少しのざわめきの後に、スマートフォンを出し始めていた。駅員さんが、何か言っている。
私はわからない。彼女の美しい瞳が、線路で暗く死んでいる。その事実だけから、私は目を逸らせずにいた。
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