【TRPG】RPはケイドロのようなものだと思う


TRPGとは、テーブルトーク・ロールプレイングゲームというその名の通り、キャラを動かす時、展開を動かす時にロールプレイング(役割演技)をする場合がある。

ロールプレイングについて、Wikipediaの役割演技の冒頭に記された概要がわかりやすい。

また、初期遊戯王でバクラくんも、「役割を演じる」と説明していた。
わたしはロールプレイング(RPとよく略されているのを見る)について、もっとも腑に落ちる言葉だと思っている。

RPはつまり、擬似体験ができる手段だ。自分の「もしも」の状況だったり、自分ではない誰かだったりする。「ごっこ遊び」ともいうだろう。我々はこどもの頃から、なにかになりきって遊ぶことが好きだったはずだ。
ヒーローごっこや、おままごと、鬼ごっこなど。内気な子も、絵を描いたり本を読んだり、テレビ番組を見て頭の中では「なりきっていた」のではないだろうか。

TRPGはPCが役割を果たすために、RPをするのだが、これがまたなぜか、論争を生んでいることが多いのだ。詳細は省く。

これは「RPのドラマ」をどこに求めるか、の違いで起きているのではないか。
そう考えているが、だからといって、やはりどちらがいい、悪いと言うことはない。

例えばディベートをする時、進行役、書記、発言人A、B、その2人の反対意見を持つ発言人C、Dがいるとする。
それぞれの役割は明確だ。進行役はディベートを円滑に回すために、周りの状況をよく観察し、意見をまとめたり、逆に投げかけたりする。書記はその内容を的確に整理してまとめる。ブラインドタッチや速記が得意な人がいいだろう。
発言人たちは、反対意見と対立するわけだが、互いの発言をよく聞き入れ熟考し、自分たちの意見を交換し合う。

そのディベートそのものが目的だったり、そこで結論を出すことが目的だったり、ゴールはさまざまだが、そこに向かうまでの役割はそう変わるものではない。

これは「システム上の役割演技」なのではないか、と個人的には思っている。
役割演技、というよりは役割分担と言う方が正しいのだろう。目的を達成するために必要な役割だ。AEDの講習なんかもそうだろう。

鬼ごっこなら、「鬼」と「鬼から逃げる」役割にわかれ、鬼は全員捕まえること、鬼以外は、全員が逃げ切ること。これもシステム上の役割演技だ。

では、「おままごと」や「変身ごっこ」、演劇のエチュードなんかはどうだろうか。

即興性の物語が作られていくわけだが、それも「役割演技」だ。むしろこちらの方が役割演技として見られるのではないだろうか。

「お父さん」「お母さん」「子供」「ペット」そんな感じの割り振りがある。システム上の役割演技とどう違うかと言うよりは、「その役割のキャラの行動」になるのだと思う。
「役目」と「キャラ」では、「役割演技」で目指す目標が異なる場合がある。

例えばもし、普段は司会役の人間が書記を任された時、キャラとしてどういうRPが予想されるだろう。

そつなくこなす?
いつもの癖でつい仕切り始めてしまう?
不満を持って退出する?
実は司会なんてやりたくなかったのだと安心する?

書記の役割は、そのディベートや会議を記録することだ。
だがここで尋ねたのは、「もしもこの役割のキャラクターがこの役割になったら」
という「シチュエーション」での「役割演技」だ。
ここでの「役割」は、「キャラクター」だ。
性格や行動の「役割」、人間関係の中での「役割」だ。

つまり、
システム上の役割演技がジョブやスキルで、
シチュエーション上での役割演技がキャラクターなのだとわたしは考えている。

どちらが悪いということはなく、ただ、
システムの役割として「RP」したい人と、エチュードのようなキャラの行動として「RP」したい人が、その部分を明確化せずに意見が食い違っているように思える。
どちらも「役割を演じる」ことには変わらないはずなのに、違う、と思うのは、役割分担されたうえの、目標の不一致が原因なのではないだろうか。

とはいえ、役割の不一致が云々と言っても交わらないものは交わらないものだな、と思うが、どうだろうか。

鬼ごっこの時、鬼に追われる際にぎゃあと叫んだことはないだろうか。面白半分にでも命乞いをしたことはないだろうか。逆に立ち向かったことはないだろうか。

システムだけの「役割演技」でいえば、それら茶番のようなものは「必要のない」ことなのだ。
逆に、ただ叫んだり、命乞いを急に始めたら怖いだろう。可視化された「追い詰められている理由」があるからこそ、役割の合致が生まれ、「RP」の効果となる。

何を言っているのかわからなくなってきたが、役割演技とはつまりシミュレーションである。普段体感しないものの追体験をしたり、誰かの立場で考えたり、または自分の意見で現在の役割や立ち回りをどう見るか……自分ならばどうするか……。そういったことを考える。
その結果の行動や発言が異なるだけで、やっていることは特に変わりはないのだと思う。

わたしは演劇も少し齧っていたので演技も好きだが、システムを楽しむことも好きだ。
わたしにとって役割を楽しむということは、レールの上で自由に踊るということだ。

最初の話に戻るが、「どこにドラマを求めるか」という違いが、RPへの考え方の違いを生むのだ。
キャラクター同士のやりとりによってドラマは生まれる、と考える人もいれば、作戦が通用した時の喜びや、全滅した時の悔しさがドラマだと思う人もいる。そのどちらも「RP」によって生まれているのであるから、どちらも間違いではない。どちらも大変結構なのだ。

わたしはPCのシステム的なRPも、キャラクター的なRPも好きだ。もともと演劇をかじっていたことがある。表も裏も経験した。だからこそ、どちらの役割も好きなのだ。
PCの操作というものは、自分が役者で、裏方で、演出家になる。そして複数いる他PLも同様である。だからこそ相手の「役割」に乗っかったり、自分と相手の持つ「役割」だからこそ対立したり、そうしたパワーバランスを作るのが好きなのだ。うまくはできていないが。

その調整がうまくいった時ほど自分がどれだけコミュニケーションストックがあるのかが見えてくる。
わたしは、現実で苦手な人間や嫌いだと感じてしまう人間の行動や性格を自分が使うPCに反映することがある。正直人間としては嫌いでも、キャラクターにすれば愛せてしまうのだ。だからといってその人を愛すことはないのだが、不思議と怒りは減る。

わたしはそのキャラの役割を演じたからだ。
そのキャラクターを知ってしまったから。

RPというものは、人によってそれぞれだろう。ゲームの楽しみ方もそれぞれだ。

だからどうしろともいえないし、いわないのだが、ある程度システム的に目標を定めたいのであれば、RPの目安や「縛り」、を増やしてみるのはありかもしれない。

縛りというのは、設定や約束、それこそゲームでよく流行っている「お嬢様言葉」や「カタカナ禁止」みたいなもの。
こういう縛りがあることで、ゲームの楽しみ方が増えたり、変化したりする。
例えば、鬼ごっこのルールに、捕まった人間はまだ動ける仲間にタッチされればふたたび逃げられる、という「縛り」をつける。

このルールが適用されているのは、氷鬼やケイドロだろうか。この二つについても、「鬼」は「氷」の能力が使える設定が増えているし、ケイドロは鬼が「警察」で逃げる方が「泥棒」となる。いままでは鬼の方が悪者のようであったのに、設定を加えるだけで立場が逆転してしまった。

自由も面白いが、「縛り」もまた面白いのだ。

どうしてもこの場面では逃げてほしいのに、「このキャラはそんなことをしない」と、システム的行動とキャラの行動がぶつかってしまう時、わたしは、行動はPLに委ねず撤退をしてほしいと告げたい。
役割演技は「キャラ」として選択することだけでなく、「シチュエーション」「システム」に乗っかることも一つだと思うからだ。特にゲームであるのなら尚更、自分はその「役割」を演じたい。

(ただアドリブも好きなので、その裁量はその時になってみなければわからない。)

私はRPをする時は、当事者であり、同時に舞台装置であるという気持ちが強い。
いうのであればテーマパークの着ぐるみやスタッフさんやらみたいなものだ。

もしくはブティックでもスーパーでもファミレスでも、事務仕事でも学生でもどこだっていえることでもある。

人生自体が役割演技のようなもので、人と関わる上では避けられないところもある。悲しいことに。

だが、ゲームの中の役割演技なら、普段の自分の枠とは違うことができる。
一種シミュレーションであり、一種、別の人生でもあるように思える。

それとこれとは違うという意見もあるだろう。実はわたしもそう思う。
そう思うが、上記のようにも思っているのだ。

だから、つまり、何度もいうが、どの考えも、どのRPも悪いというものはないのだ。

わたしは全てが自由でいいと思うし、自由であるから「縛り」が好きだ。
だから役割を演じることことができる。

その限られた舞台の上で、どれだけ自由を演じることができるのか、わたしはそういう試みが好きだ。

やっぱりRPの話は難しかった。
きっとそれぞれのRP観があるのだろう。さまざまに想いを馳せながら、わたしの話はここまでとする。


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