漁火

漁火

 通勤の途中、海が見える。船の通る景色がほんの数十秒。その波の光の夢を、あたしはよく見るのだ。

 会社に行かなくなってから、二週間がたった。
 はじめは、同僚や上司からメールやら電話やら届いた。高校時代の体育祭前、インフルエンザで休んだとき以来の人気者ぶりだった。でもそれも、すぐなくなった。二週間めの月曜日、上司から愛想程度の催促がくるくらいで、スマートフォンの光るまぶしすぎる画面はずいぶんさみしくなった。
 暗がりになりはじめて目が覚める。覚めたところで、することはないけれど。
 ベッドの上に仰向けになり、ぼんやりと天井を見つめる。薄青の世界がどんどん暗くなっていく。夜になっても、あたしの居場所はない。このベッドの上にしか。
 SNSをぼんやりと眺める。友人の鍵アカウントの愚痴を見て、別の友人の愚痴もみる。いま、二人は冷戦状態だった。双方自分が被害者だと言い合いながら、互いを、しらないところでなじりあっている。それをあたしは知っている。なんてばかなのだろう。
 画面の光が眼球を刺す。最近、左目がちくちくとする。満員電車の中で、太陽の光を直視してしまってから、ずっと痛む。
 寝返りを打って体制を変える。あたしはまだ具合が悪い。だから、まだ、休む。もう一生、外に出ない。ごはんも食べたくない。幸いおなかもすかなくなってきた。このままもやしみたいに生きる。この部屋の隅っこにいる。
 音楽を聴くのも飽きた。この部屋は静かだ。外の音がよく聞こえる。車が通り過ぎる音。親子の会話。カップルの笑い声。やばいおじさんの奇声。
 なんでも聞こえる。なんでもわかる。
 だから、あたしはここでいい。
 疲れてしまった。人生に、なんてことではない。あたしは疲れてしまった。
 会社のきれいすぎるトイレで、新作の口紅を塗っているときに気づいてしまった。ブランドにわくわくして、気になるひとの好きなアーティストの曲を調べて、季節にあった服を着ていた、いい天気の午後だった。鏡の前であたしは、あたしと目があった。
 誰だ、こいつは。
 ひどくむかついて、おそろしくなった。愕然とした、といってもいい。
 あたしが昔から知っているあたしは、そこにはいなかった。その日はどうやって家に帰れたのか、覚えていない。気がついたら、ベッドに寝そべっていた。
 それから、鏡は見ていない。洗面台の鏡も、顔を上げずに通り過ぎていた。
 きっと一ヶ月後には、あたしは解雇されるだろう。一身上の都合とか、なにかの書類を書かされて、そのためだけに会社に呼び出されるかもしれない。でも、もう誰も気にしない。
 眉毛にふれると、伸びてふわふわとしている。小動物のおでこみたいだ。
 うっすら声を出してみる。かすれた声が通る。あたしの声。でも、違うような気がする。長く、弱く、声を出す。船の汽笛みたいでおもしろい。遠くへいきたい。このまま、波の上でゆらめく光になりたい。
 端末が手の中で震えた。画面を見ると、一九時になっていた。それと一緒に、一通のメッセージが通知されていた。
 うんざりした。唯一、毎日メッセージを寄越す。朝八時と、夜一九時、きっかりに送られてくる。既読をつけないように、通知画面の文面だけ読む。

「退勤です。今日は、ちょっぴり残業です。みんな、心配しています」

 画面を伏せて、あたしは枕に突っ伏した。そうするしか逃げ場はない。あたしはこの女が嫌いだ。
 須田未玖子は、同期入社だった。明らかにあか抜けしない、学生丸出しの地味な女で、うつむきがちに小さな声で話す。うつむいて笑うと、少し二重顎が出来る、人見知りの子供みたいだった。
 たまたま研修で席が隣になって、知り合いも全然いないから、話し相手になっただけ。それだけだった。社会人として、人とあたりさわりなく話すのなんて当たり前のことで、彼女はあたしになついてしまった。なんでも、かんでも、あたしと話を共有したがる。廊下ですれ違うたびに、声をかけてくる。あたしも無視をするわけにもいかなくて、あからさまに大げさな愛想笑いで接した。それなのに彼女は気づかなくて、あたしにつきまとってきた。のこのこなつく、最初から家生まれの子犬みたいで--鬱陶しかった。
 あたしのメッセージ欄を、SNSと勘違いしているのじゃないか。開かれないままの通知を、たまっては消していく。同じ名前が連なっていて、気が滅入る。
 どうせメッセージをくれるなら、神田くんがよかった。休んだ初日以降、彼からはこないけれど。SNSを見ると、神田くんは同期と飲みの写真をあげていたり、休日はジムに行ったりしている。あたしのことなんてまるでない。伊井沙樹の名前なんて一度もタグ付けされたことがない。
 他の同期のSNSも、学生時代の友人も。みんな、平凡で、いいことがあったり、悪いことがあったり。そんな近況を話している。
 どうしてあの女からしか。
 あたしは。うまくやっていたはずなのに。
 目の端がひやりとした。それなのに眼球は熱くて、風邪をひいているときのように、全身がだるい。枕に涙が染みてしまった。一度涙が出ると、止まらない。しゃくりあげる喉を押さえ、ベッドの上で身体を丸める。
 ひとりだ。
 あたしはひとりだ。
 部屋が寒い。景色が暗い。目を閉じると、ぐるぐると渦巻く感覚が続く。暗闇に溶けてなくなりそうだ。
 スマートフォンが震えた。今度は長く。画面を見ると、須田の名前が表示されている。また左目がちくちくとした。
 眉をひそめ、唇を開くと舌打ちが漏れた。電話のコールは切れる気配がない。
 仕方なく出ると、端末の向こう側から、つっかえたような声が聞こえた。それがさらに、眉をひそめさせる。
「……なに」
「あの、伊井さん。あの……よかった」
 たどたどしい、か細い声が聞こえる。微かに震えるため息が、須田の緊張を思わせる。
「よかったって?」
「その、電話に出てくれて……」
「死んでるって思った?」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。端末越しに、動揺した声が聞こえる。
「そんな……そんなこと、いわないでよ」
 本当に泣き出しそうな声に腹が立った。むっとわき上がった感情を吐いてやろうか。そう思ったが、深く息を吸いこんだ。久しぶりに口角を上げる。
「ありがとう。心配してくれて。でも大丈夫だから」
「でも、無断欠勤って……きいた、けど」
「そんなの、いまどき誰でもするよ。したことないの?」
「う、うん」
 須田は弱く声を漏らした。自信なさげな頷きが目に浮かぶ。まったく笑えてくる。
「いい子ちゃんだもんねえ」
 言葉が返ってこなかった。向こう側の雑踏と、部屋の耳鳴りが混じる。
 お願いだから、もう電話しないでね。声に出さずにそれを念じる。
「あの……駅、最寄り駅、近かったよね」
 今度はあたしが言葉を詰まらせた。そうだけど、と早く呟く。
「会いに、行っていいかな」
 そうっと尋ねるようにいった。
 嫌、と口に出かけて、一瞬の間ができた。
「……そんな、気を使わなくていいよ」
 ぎこちなく明るい声を出す。口角がひきつる。
「わたしが、行きたい、です」
 裏返った須田の声が、あたしの拒絶を遮った。
 この。
 この純真さが嫌いだ。
 善意が正しいと信じているこの、この女が。
 唇を強く噛む。きつく痛んだ。左目の痛みも増している。
 どう振る舞ったか覚えていない。けれど、来ることになった。家に来られるのは耐えられなかった。駅近くの公園で、待つことにした。
 久しぶりに、外に出る。あの女が来るせいで。

 夜風は、ずいぶん冷えこんだ空気になっていた。軽く羽織ったカーディガンと足首の出るワイドパンツでは、少し寒かった。
 今夜は満月だった。月はこんなに明るかっただろうか。金色の光が、暗い空にこぼれ落ちている。目を細めると、光が延びて、放射線状に輝く。左目の奥が鈍く痛んだ。
 公園には誰もいなかった。夜出歩く不用心さに、いまさら気づいて、少し竦んだ。公園から見える街の明かりは、遠くて頼りない。気の早いイルミネーションがいくつも点滅している。
 まるで漁り火だ。
 いつかの深夜、電車でうたた寝をした時に、夜の海に浮かんでいた細い光。夢だと思っていた。夜に夕日の波の色が見えるのだから。あの糸のような微かな光を見て、なぜか分からなかったけれど、自然と涙が出た。
 あの海を見たい。ぼんやりと思っていると、ためらいがちな足音が聞こえた。
「伊井さん」
 振り向くと、須田未玖子は相変わらず野暮ったい姿で現れた。時期が早い厚手のコートを身に纏い、首をすくめて、伺うようにこちらを見ている。もごもごと唇を巻き、はにかんだ。
「な、なんか、ラフな伊井さんって新鮮なかんじ、だね」
「そう」
 彼女の笑みを見ないように、つま先を見つめたまま返す。
「あの……みんな、ほんとうに心配してるよ」
「みんなって?」
「篠田さんとか、田中さんとか……仲良い、でしょ」
 ふうん、と頷きながら、つま先で砂利を蹴る。
「神田くんは」
「え、わ、わかんない。……話さないから」
 須田の声は細くなる。ふうん、とまた答えて、砂利を蹴り続ける。
 そこは嘘でも心配してるって、いえ。嘘だってすぐ、わかるけれど。
 むかつく。
 ざりざりと砂の音が、どんどん大きくなる。ちらと視界に映る須田の足下で、戸惑いがわかる。
「神田くん。篠田とつきあってるんだよねえ」
「そ、うなの」
 須田がしゃっくりのように、弱い声を返した。ほんとうに初めて知るようだった。
「うん。だから、なんか、いってるかなって」
 自嘲ぎみに笑ってしまう。そうだ。あたしは、あの口紅を買った日に知った。
 別に神田くんのせいじゃない。ただあたしは、あたしでいるのが疲れた。それがたまたまその日だった。
 だけどあたしは、神田くんが好きだったし、それはごまかしようがなくて、でも篠田のことも好きだった。その好きを比べてみたら、別にどうでもよくなった。ただ、からっぽだ、って思った。
 須田だって、何一つ悪くない。優しくて、純粋で、まっすぐで、あたたかい。バースデーケーキの小さなろうそくみたい。だから、あたしは嫌いだ。
「もう帰ってよ」
「え」
「満足したでしょ。もう帰って」
 これ以上、かなしくなりたくない。
 この子がいると、あたしは、惨めだ。
 須田の、指のまごつきが見える。顔は見ないけれど、どんな表情をしているかわかる。
「わ、わたしのこと、嫌い、だよね」
 彼女の声は震えていた。少し目を上げると、大粒の涙が、彼女の顎を伝っている。服の裾をぎゅうと握りしめている。
「し、知ってたの。迷惑だって思われてるだろうなあって、わかってた。でも」
 須田はしゃくり上げ、叱られた子供のように喉でぐうと声を抑える。
「き、嫌いでも、いいから、お願いだから。また会社きてよ。わがままだと、思うけど。わたし、伊井さんが好きなの。あこがれなの。真っ赤なくちびるも、きれいなファッションも、好きな人を見るまなざしも」
 はっと顔を上げる。いつもベージュの彼女の唇は、見覚えのある赤だった。
「ばかじゃないの」
 そういったあたしも、泣いていた。涙が頬を流れる。
 ばか。ばかだ。あの子はばかだ。
 どうしてあたしなんか、世界の中心においてしまったのだろう。
「あんたなんかどうでもいい」
 吐き捨てた。踵を返し、あたしは歩き出した。ヒールの音もしない、ぺたんこのシューズで。
 須田は追ってはこなかった。すすり泣く声だけが遠ざかっていく。
「これからも連絡、していいかなあ」
 ひどく歪んだ、甘く鼻づまりした声が、背にかけられた。
 濡れた頬に風があたり、冷たい。光が滲む。光が、延びる。
 
 家に帰り、洗面台に向かう。久々に鏡を見た。あたしの顔は、こんなだったろうか。眉もぼさぼさで、髪も整っていない。肌は少し荒れている。でも、あたしだ。しっくりくる。
 泣いている須田は、波の光のようだった。街灯に照らされるその瞳を、野暮ったい泣き顔を、美しいと思った。
 あなたが、嫌い。
 濡れて腫れぼったい瞼の奥に、あたしの黒い瞳がある。
 水平線のゆらぎが見える。あたしは明日も生きてやる。
 あなたが嫌いと言うために。
 口紅を塗り、あたしは笑う。あの子とお揃い。すっぴんにはひどく不釣り合いな、派手な赤だ。
 嫌いだ。大嫌いだから。見せてあげようと思うのだ。
 にっと唇を横に引く。赤く燃える、水面に見えた。

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