【小説】おもいで

昔応募した作品供養。R18文学賞に送りましたがあんまりR18じゃなかったですね…


 三十人で事足りたはずの宴会に、飛び入りで六人も増えた。合宿が終えた頃には皆打ち解けるのだから、こうなると予想して、四十人で予約しろ、といっておいてよかった。
 深山英治はひとりごち、声量がどんどんあがっていく居酒屋を見渡した。経済ゼミの教授と、民俗ゼミの教授が隅で酒を注ぎあっている。
 過疎化の進む地方に若者を呼ぶために、地域の魅力と新しい経済とをイノベーションするアイディアを考え企画する「わかもの地域参画企画.net」は、経済学部と、民俗学部の有志で生まれた実験的なもので、夏休みの二週間を使っての実施となった。別学科と合同の集中講義で地方に行く合宿など、なかなか経験出来るものではない。英治は都内就職を考えていたが、東北の豊かな緑に触れていると、Iターンも悪くないと感じた。仙台ならば、ライブのハコくらいはある。
「今年はさあ、絶対長野かなって思ってたんだけど、蔵王もいいなあって気がしてきた。まだ行ったことなくね?」
 そういいながら織部が肩を組んで、しなだれかかった。声量が鼓膜の内でぐわんぐわんと揺れる。赤ら顔の端正な顔立ちをした友人の重さが鬱陶しい。
「どっちにしろ、山なのかよ」
「いやいや、スキー旅行は軽音の恒例行事だろ? 英治、今年こそ滑ろう」
「今年滑るはやばいって」
 英治はぬるいビールを飲み干し、ピッチャーで注ぎ足した。織部は笑いながらピッチャーを奪う。
「受験じゃないんだから。てか、英治絶対リーマンとか、無理だから。一生バンドしてよーぜ」
「お前も想像出来ねーよ」
 お互いに額を叩きあう。乱雑なコミュニケーションが楽だった。織部の絡み酒も、友人とだけならいいものなのだが、と英治は溜息をついた。
「英ちゃんスキーできないの? スノボ派?」
 隣に座っていた経済学部の友人が口を挟んだ。
「いや、なんとなく、冬の山が苦手っていうか。それよりは旅館でのんびりしたいし」
「ああ、なるほどねおじいちゃん」
 そうからかうようにして、友人は汗をかいたグラスで乾杯していった。
 同い年だわ、と返事を投げ友人を見送っていると、既に織部がいないことに気がついた。見渡すと、隅に座っていた女子に、ほとんど隙間のない距離で話しかけている。
 英治は慌てて、彼らの方へ移動した。グラスから水滴がぼたぼたと垂れる。
 織部の端正な顔は、柔らかに緩むといっそう際だつ。ライブでも織部のファンは、微笑まれると弱いらしい。そして、なぜだか相思相愛だと勘違いする。その上、彼も好意を断らない。彼女がいるくせに、こいつは、と英治は眉間の皺を深める。
 ようは女好きなのだ。
 英治は毎回、織部の彼女であるサキと彼と、はたまた、浮気相手の女との中継をしなければならなかった。それが面倒だったし、勘違いした女の子が、かわいそうだ。
 だから、サキの「浮気しそうだったら見張って」という内密の制約に英治は承諾し、織部は二週間の地方合宿が許された。
 暗がりの下で、その女子はうつむきがちにして、眼鏡の縁が光っている。ほんのり控えめな笑顔で頷いていた。
「ほんと、助かったよ。八棟さんいてくれてよかったー」
「たまたまお母さんの実家があるだけだから……私なんて、なにも」
 彼女は黒髪を揺らし、恐縮気味に肩をすくめた。
「いや、でもすっごい地理詳しかったし。方言も、よく聞き取れてたじゃん。よく帰るの?」
「一人暮らしになるまでは、毎年帰ってたかな」
 はにかみならが首を傾げる。ちょこんとしている唇が熟れたように赤く、滑らかな白い肌によくあっていた。彼女は必ず、相手の話に耳を傾ける時、返事をする時、じっと目を見て答える。黒い飾り気のない瞳は吸いこまれそうなほど深い。
「まじか。家族孝行だなあ」
 織部はしみじみとしながら、その瞳から目がそらせないようだった。
「おい、あんまり絡むなよ」
 さらに距離を詰めそうだったので、英治は慌てて距離を取らせた。
「ごめんね……八棟さん」
「ううん。私話すの苦手だから。いっぱい話してもらっちゃって」
 そういって、頬にかかる黒髪を払う。飾りっ気のない黒に、天使の輪が浮いている。
「優しいなあ。なあ、英治」
「俺に絡むなよ」
 織部を引き剥がしながら、英治は八棟凛恵子に目を向けた。控えめにそろりと伺うような上目使いと視線がかちあい、とっさに視線をそらした。
「東北っていったら雪女だよなあ。俺の論文的にも、新曲的にも超もうけもん」
「お前何書くの」
 英治はグラスを置き、織部を座布団ごと引きずった。
「民話のイイ女大全」
 英治の膝にのしかかりながら、織部はとろんと酔いの回った顔でいった。怪訝そうに眉を顰めると、織部は唇を尖らせ起きあがった。
「冗談だよ。民話の結末が悲恋かハッピーエンドかの割合と地域性を調べてんの」
「なんだそりゃ」
「皆の地元の風習とか結婚観聞いてたら、興味出てきて」
「それ、面白いね」
 凛恵子が小さく笑った。
「でしょ。雪女ってかなり悲恋だし、歌にもするから、ライブ来てよ凛恵子ちゃん」
 顔を緩ませ、素早く凛恵子の隣を陣取った。ちゃっかり名前の呼び方を変えた彼に呆れ、英治はその隣に腰を下ろした。
「深山くんは、ベースなんだっけ」
「そう。こいつ、一番うまいの。そんで俺は、ギターとボーカル」
 織部が代わりに答えた。
「んなことない」
「真面目なんだよなあ。練習室の鍵、だいたい持ってるし。お前大学デビューだろ」
 けらけらと指を突きつける織部の肩を殴り、英治は注文ボタンを押した。
「うるせえ。そのネタ飽きたわ」
 くすくすと凛恵子は困り眉で笑い、「仲いいね」と口元を隠した。
 英治はしばらく言葉に詰まったが、注文を取りにきた店員に、席の全員に確認を取って、「以上で」と軽く笑みを向けた。
 席に直ると、凛恵子と視線がかちあう。どうも、その瞳に見つめられると、ぎくりとする。見咎められているような、不思議な居心地の悪さが胸に沸く。
 どきまぎと目を泳がせ、言葉を探した。
「そういや雪女っていうと、俺、話きくたび思うんだけど。なんでミノスケ? って、雪女のこと忘れちゃったんだろ」
「巳之吉な」
 織部は座り直し、急に緩んでいた顔を整えた。案外、学科絡みの話になると、織部は真面目だ。
「地域にもよるけど、雪女にあってから一年くらいは経ってるし。最後には巳之吉が、雪女の話しただろ」
「でも、それまで忘れてるじゃん。すごい美女だったんだろ。父親も殺されちゃってるし。さすがに再会したら、すぐわかるんじゃないの」
 店員が差し出すジョッキを受け取り、英治は空のグラスを集めて返しながらいった。
「いやあ、どうかね」
 織部は肩を上下させ、意味ありげに笑った。
「なんだよ」
「女子ってけっこう、服とか髪とかで雰囲気変わるしなあ。それに、お雪は『美女』としか書いてない。同じ顔だったとは限んないからな」
 人差し指を振り、英治につきつけた。
「……なんか、それ以外もあるって顔じゃね?」
「まあ、あるけどお。英治くんにいっても、わっかんないかなあ」
「はあ?」
 英治はがくんと首を落とし、顔をしかめた。織部の肩を軽く押すように殴りながら、ぐらぐらと視界が歪むのを感じた。ずっと織部に張りついて、気を張っていたせいか酒のペースを考えていなかった。ごまかすように織部に絡む。少し覗きこむと、織部を挟んだ向こう側の凛恵子と目があった。
 凛恵子はずっとはにかんで、グラスのサワーをちびちびと飲んでいた。
「八棟さんは、どう思う?」
 目があった気まずさで、英治はそう尋ねた声が少し掠れた。
「私? そう、だなあ」
 凛恵子は目を伏せた。まつげがちょんと上向いている。
「巳之吉は、本当はちゃんとずっと、覚えていたんじゃないかな」
 そう、英治の目を見て答えた。夜の湖のような黒い瞳が、英治を映す。
 ふいに首筋が冷えた。振り返ると、店員がリモコンを持ち、空調調整をしていた。英治のいる位置がちょうどエアコンの真下だった。
「すみません、寒いですか」
 若い店員が、頭を下げた。
「あ、いえ。大丈夫です」
 冷たい風が、皮膚を冷やす。大丈夫といった手前、着こむ訳にもいかなかった。ただ、火照った顔に当たる風は、気持ちがよかった。
「ごめん、逸れたね。……なんで、そう」
「……ううん、わかんない。そう思っただけ」
 凛恵子は胸の前で手を振った。相変わらずの困り眉ではにかみ、「これ以上は、適当なこといえないし」と人差し指を立て、教授のいる席に視線を送った。他の学生たちの輪に混ざり、酔っぱらいだらけの小さい講義が始まっていた。
「乾杯!」
「かんぱーい!」
 二回目の乾杯が沸き起こる。気がつくと織部は、その輪に混ざっていた。
 英治は凛恵子と顔を見あわせ、小さく肩をすくめた。同じように彼女も返す。その仕草を、織部のもとに向かいながら、英治はずっと反芻していた。

 居酒屋から赤ら顔の人間が、のろのろと歓談しながら外へ押し出される。二次会の話があがる中、英治は揺れる視界に耐えながら織部の動きを見ていた。二次会組の話に飛び入り、次の会場に向かいそうだ。
 正直なところ、帰りたい。サキとの約束は、一次会までで果たせたといっていいだろうか。
「八棟さん、どうする」
 隣に立っていた凛恵子に声をかけた。彼女は少しぼんやりとしていたのを、柔らかな笑みで覆った。
「私は、帰ろうかな。レポートもしなきゃいけないし。深山くんは?」
 小首を傾げて尋ねる。ネオンに照らされ、白い輪郭が淡く光る。
「俺は」
 どうしようかな、と二次会の話が決まりつつある集団に視線を向けた。少なからず女子はいる。
「織部くんなら、大丈夫だよ」
「え?」
「さっちゃんに二次会の場所、伝えてるから」
 凛恵子はそういって、小さく笑った。
 呆然として、英治は目を瞬かせる。
「サキと友達だったんだ」
「うん。織部くんのことよく聞いてる」
 そう、と英治は脱力した。彼女もまた、サキの協力者だったのだ。
「帰ろっか、な」
 長い溜息を吐くと、急に酔いが回った。よろけそうになるのを堪える。目眩の強い視界に、凛恵子の少し目の見開かれて、心配そうな顔が映った。
「英治、帰んの?」
 織部が輪から抜け、英治にもたれかかった。
「飲み過ぎた」
 ぐらりと揺れ、酩酊の酷さを知った。織部を押し返して顔をしかめると、織部は凛恵子と英治の顔を視線だけで交互に見比べ、にっと気のいい笑みを見せた。
「お幸せに〜」
 大きく手を振り、にぎやかな輪に戻る織部に、英治は少し顎をしゃくって笑った。そのうち彼女が、バイクで迎えにくるだろう彼を思うと、多少穏やかな気分になる。
 酔っぱらいの集団が遠のくと当たりは急に静かになった。
 凛恵子の方に目をやった。視線がかちあい、ぼやける視界の中で彼女は少し困ったように微笑んだ。
「俺、駅はあっちだけど」
「私も同じ」
「歩こうか?」
「うん。酔いさまししないと」
 笑いかけられ、英治も思わず、笑みを返した。
 ネオンの光がぼやぼやと二重になり、どことなく音が遠かった。少し気を抜けば、意識が遠のきそうだった。生温かい風でも、火照る頬に当たると、気が紛れる。
「今日、飲んでた?」
 英治はなんとはなしに問いかけた。
「飲んでたよ」
「全然、減ってないように見えたから」
 彼女の手元には、ずっと同じ形の、同じ色のグラスがあった。量は一定のようにも見えた。
 凛恵子はああ、と肩をすくめた。
「あれ、同じもの頼んでるだけ。レモンサワーが好きってことにしてるの」
「してる?」
「話題にしやすいし、選ばなくていいから、楽なの」
「好きじゃないんだ」
 英治は額を拭った。嫌な汗が浮いている。本格的に、具合が悪くなってきた。悟られないように、笑みを見せる。
 凛恵子は唇を小さく巻いて、小首を傾げた。
「わかんない。でも、他のをっていう気にも、あんまりなんなくて」
「わかるかも。俺も、とりあえず生っていっちゃうし」
「おじさんみたい」
 凛恵子は顎を上げて笑った白い喉がぴくぴくと動く。
「深山くんって、なんか、大人っぽいよね。面倒見いいし」
 そんなことはないけど、と前置きし、「妹がいるからかな」と答えた。
「そうなんだ。何歳?」
「十七だったっけ。生意気だよ」
「かわいくてしょうがないって感じ」
 からかうような口調でいい、「いいね、深山くんがお兄さんか」と空に呟いた。
「八棟さんは、きょうだいとかいるの?」
「一人っ子。だから、うらやましいな」
「じゃあ、親さみしがるでしょ。一人暮らしなんて」
 俺はうらやましいけれど、と夜空を仰いだ。脳が渦巻く感じがして、喉の奥にこみあげる苦い感覚に顔をしかめる。英治は深く息を吸いこんだ。
「大丈夫? 具合、悪そう」
 凛恵子は英治の肩に触れ、心配そうに見上げた。
「飲み過ぎただけだよ。いつもは……こんなんじゃないんだけどな」
 足に力が入らなくなる。視界が暗くなっていき、眠気とも違う、気が遠くなる感覚に青ざめる。冷たく固い感覚が身体を襲う。電柱にぶつかったのだと気づいた時には、座りこんでいた。
「救急車……?」
 凛恵子の声が遠く感じる。
「いや、ちょっと……立ちくらみ」
 荒い呼吸を繰り返し、目を強く瞑る。渦巻く感覚が消えない。動悸が速く、全身を震わせた。
 死ぬ。端的な一言が頭に過り、ますます血の気が引いた。なんとか立ちあがろうと、電柱を押し、力をこめるがずるりと滑るだけだった。妙に思考だけははっきりとしている。雑音のない声が、死にたくない、と告げる。
 焦燥に空を掻いた英治の手が、柔らかな手に掴まれた。ひんやりとしているが、優しい体温だった。
 英治は思わず縋りついた。抱きしめた身体は小さくて、暖かい。背中に回した腕の力を強め、首筋に顔を埋めた。うっすら開いた視界は、霞んでいるが、少しまともになっていた。徐々に五感が戻ってくる。微かに甘いにおいがして、泣きたくなった。
「深山くん」
 我に返り、身体を離す。凛恵子が不安げに腕の中で見あげていた。
 心音が整ってくると、周囲の音が戻った。通り過ぎる人間はちらりと二人に視線を寄越す。
「ごめん」
 英治は動揺を隠せないまま口ごもった。凛恵子は少し首を振り、ずれた眼鏡を直した。
「……立てそう?」
「……まだ。ちょっと、休んだら……」
 冷や汗の滲むまま、英治は少し顔をあげた。
 ピンク色のネオンが光った。ホテル街はどうして、わざとらしく姿を現すのだろう。眩しい光を直に受けると、目が痛んだ。
 凜恵子の覗きこむ瞳に映る、自分の顔が情けなくて、目をそらした。
 
 チェックインの手続きをしたのは凜恵子だった。英治の身体を支えながら、受け答えは滞りなく済み、一室を借りた。
 簡素な、普通のホテルのようで、英治は少しほっとした。
「本当にごめん。置いてっていいから」
 電気もつけないままベッドの上に倒れこむと、また目が回ってきた。酒と腐臭に似た具合の悪い溜息が漏れる。
「吐くまで見てったら帰る」
 スマートフォンを手に持ちながら、凛恵子は部屋の温度を下げた。強い送風の音がして、冷や汗の浮いた英治の身体を撫でた。
「吐き気はないよ」
「死なれたら怖いもん」
 そういって眉根を寄せて唇の端をあげた。冷蔵庫にコンビニで買った水を入れ、仰向けの英治の隣に腰を下ろした。
 心臓は短く音を立てる。ひび割れた陶器を手のひらで押さえつけているような気分だった。
 ぼんやりと凛恵子の横顔を眺める。収まりのいい、柔らかな輪郭がスマートフォンの光に照らされている。視線に気づき、黒い瞳が英治に向けられた。一度も染めたことがないだろう長い黒髪が柔らかく艶を帯びている。じっと見つめていると、年下にも、年上にも思えてしまう。
 ラブホテルでなくても、個室に二人きりというのは、随分妙なことに思えた。なんとなく放った手が、彼女の指先に触れた。凛恵子は指先を少し曲げ、英治の人差し指と絡めた。凛恵子の指の腹は柔らかく、英治の、ギターの弦で固い皮膚とはまるで違っていた。
「慣れてるね」
 英治は掠れた声で呟いた。
「深山くんだって、はじめてじゃないでしょ」
「俺は、……相手の部屋の方が、多かったから」
「ふうん」
 凛恵子はぽすんとベッドに倒れ、英治と向きあった。眼鏡の奥で、酔いで瞳が潤んでいた。
「優しいもんね」
「……違うよ、断れないんだ」
 英治はシーツに顔を埋めた。
 つきあった人間たちを、本気で好きになることがなかった。近くにいて過ごしていれば、好意はもちろん生まれた。大切にしたいと心に滲んだ。だが、身体の関係に及ぶと、途端に、心が冷えた。それでも、惰性のまま関係を続け、最終的には相手から、別れを告げられる。その繰り返しだった。
 それでいいと思っていた。自分から、約束は反故に出来なかった。人が去るとき、心が軽くなる。それと同時に、すうっと寒さが全身を包む。
 目を瞑れば、冬の山に、閉じこめられる。
 あの熱に、勝る感覚がなかった。
 心音が落ちついてくると、眠気が襲ってきた。気がつくと目を瞑っていて、凛恵子が手を握る感覚に、目を開いた。
「私ね、前に、つきあってた人とは、こういうところでしか会えなかったから」
 指先を撫でたり、握ったりを繰り返し、凛恵子は呟いた。
「……それは、なんで、って聞いていいの」
 そう尋ねると、凛恵子はおかしそうに笑った。
「ほんと、優しいよね」
 英治は、曖昧に笑い返した。
「塾の先生だったの。ふたりとも、実家だったし。田舎ってすぐ、知りあいと会っちゃうから」
 凛恵子は髪を耳にかけ、少し目を伏せた。
 英治は黙って聞いていた。本当にそれだけ。それだけの過去なの。そう、喉元に出かかっている言葉を、舌を歯の裏に押しつけて押しとどめた。
「レモンサワーばっかり買っててさ。それが、おいしそうだったの」
 彼女の目は遠くを見ていた。窓に映るネオンが、うっすらと彼女の白い頬を照らす。
「深山くん、ほくろがあるね」
 ふっと英治に視線を戻し、手を伸ばした。英治の耳の下に指先が触れる。懐かしげに、愛おしむように目を細めた。
 胸が、痛い。英治は息苦しさに、喉を動かした。
「巳之吉が、忘れてないって言った理由、ずっと考えてたの。いろいろ、仮説とか、思ってみたけれど」
 凛恵子は弱く笑った。
「私だったら、忘れないから」
 なんてね、と肩を縮めて笑った。目の端が少し濡れていた。
 身体が震えた。冷房は「強」になっているのか、風がごうごうとなっている。英治は冷えたシーツに身体を擦り、咳をした。
「寒い?」
「冬みたいだ」
「消そっか?」
「いいよ」
 起きあがりかけた凛恵子を英治は引きとめた。頭部に手を添え、身体を寄せる。黒髪は柔らかく、少し冷たかった。ふれあった体温が心地よくて、ずっと触れていたくなる。冷たいのに、熱い。凛恵子の身体が腕の中に納まると、また、鼻の奥がつんとした。
 英治は目を閉じた。クーラーの音に混じり、車の走行音が聞こえる。
 雪山にいるみたいだった。
 視界の何もかもが白く、前後の距離も掴めないような吹雪と轟音の中に、英治はいた。
 どうしてあの白の中で、みんな迷わずに滑ることが出来るのだろう。
 小学生のスキー教室で、はじめて冬の山を見た。色とりどりのスキーウエアを身に纏い、見たこともない一面の雪景色に、誰もがはしゃいでいた。英治ももちろん、楽しみにしていた。スキー板を八の字にして滑っていく初心者の同級生たちよりも、英治は少しうまかった。ボーゲンを繰り返すのが、つまらなかった。
 自分は、出来るのだと思った。だから、こっそり班から離れ、リフトに乗って上級コースに向かった。
 天候が荒れたのは、コースに入ってからだった。空も、地面も真っ白だが、どこまでも広く続いていた。ちらほらとスキーやスノーボードを滑る人間がいたが、スピードがあまりにも速い。ぐねぐねとカーブを作り、技をめいめい楽しんでいる。ぶつかりそうなほど近づいても、誰ひとり事故を起こしていない。隣で滑り下りる、大人の姿を見た。先がつんと上を向いたスキー板が、鋭く見えた。もしも、あの人たちにぶつかれば、無事ではすまないと、英治は本能的にわかり、ぞっとした。
 大粒の雪がゴーグルを覆い、自分の熱で、視界が曇る。じっと白ばかりの世界を眺めていると、緑色に見えてくる。ぐらりと身体が揺れ、気がついた時には、滑り出していた。後ろに身体を引きかけたが、スキー板の先が浮き、慌てて前に踏み出した。
 切りつけるような冷気がむき出しの頬に当たる。白さで分からなかったが、斜面は酷く急で、どこまで続いているかもわからない。
 体重のかけ方で、方向が変わることはわかっていた。だが少し重心を変えただけで、ぐんぐんスピードを上げていく。八の字にすれば止まる。そのはずなのに。まったく止まろうとしない。がりがりとスキー板に、嫌な音が続いた。
 英治はパニックだった。動悸が速く、息が詰まった。頭が真っ白になり、冷たい耳鳴りがしていた。
 気がついた時には、全身に痛みがあった。
 近くのボーダーに抱き起こされ、英治は涙目であたりを見た。途中で転げ、スキー板が外れたらしい。先を見ると、スキーの板を拾ってくれている人がいた。
 打ちつけた腕や、擦った頬が、冷気に触れてじんじんとした。冷たいのに、耐えられないくらい熱い。骨に染み入る痛みは、こういうものをいうのだと、英治は知った。
 英治は凛恵子の肩に顔を埋めた。甘いにおいは、髪の香りと、肌のにおいだ。
 全身が軋んだような、鈍い痛みが蘇った気がした。
「かまくらみたいだ」
「ああ、わかるかも……」
 凛恵子は微笑んだ。細められた目が、窓の外に向いた。もしかしたら、雪が降っているかもしれない。彼女が思いを馳せる視線は、そう思わせる。
 彼女の小さな顎に指を添え、上唇を食んだ。柔らかい感触はほんの一瞬で、雪のように淡いと思った。今度は軽く押しつけるように口づけた。
「具合、悪いんでしょ」
「うん」
 頷き、凛恵子背に手を回し、弱く撫でる。下着のホックが指の腹にひっかかる。彼女の体温が服越しに伝わる。
「このままいさせて」
「わがまま」
 凛恵子はふっと笑い、英治の背に手を置いた。
 首筋に唇を落とす。肌のにおいがした。女の子はどうして甘いにおいがするのだろう。ピアスを開けていても、煙草を吸っていても。
 凛恵子はひだまりの、小さな花のようなにおいだった。微かにミルクのようなにおいがするのは、彼女が何にも染まっていないからだろうか。少し、懐かしかった。
 指を絡めて、黙って向きあっていた。触れた部分にじわりと汗が浮く。指先で撫でるだけで、敏感になっているとわかる。ゆっくりと彼女の指の形をなぞる。小指、薬指、中指の爪。人差し指の骨のあと。親指との境目。小さくて、触り心地がいい。神経が少しずつ、つながりはじめているような触れる感覚に目を閉じる。
 浅い眠りに近い呼吸が胸の中で繰り返される。夢なのかもしれない、と英治は思った。
 雪女を見た巳之吉も、そう思ったのだろう。
 寒さは人を惑わせる。そういう、魔力が、あるのだ。きっと。
  凛恵子のこめかみに唇で触れる。そのまま耳たぶを浅く食んだ。
 目の周りが熱い。
 彼女といると、なぜか、泣きたくなってくる。
 凛恵子は目を瞑り、時折くすぐったそうに眉をしかめながら、英治の手をぎゅっと握った。指先が冷えている。
「スキー教室で、はじめて女の子とキスした」
 英治の言葉に微睡みから覚め、凛恵子は目を開いた。。英治は霞む視界を瞬かせ、舌足らずに言葉を続けた。
「足くじいちゃって、かまくらで遊んでるとき」
 同じクラスだったが、話したことはほとんどない、大人しい子だった。スキー教室で同じ班ではあったが、彼女は見学だった。
 上級者コースから連れ戻され、英治は先生に叱られた後、怪我もあり麓のロッジに置かれた。家族連れで、小さな子供とソリで遊ぶ姿や、低学年の子が雪合戦をする姿が、大きなガラス窓から見える。その女の子がスキー服だけを着て、うろうろとしている姿もそこから見えた。目があった瞬間、英治はすぐ目を伏せた。とても居心地が悪くなったのだ。
 片足をひょこひょことひっぱりながら、英治はその子の後を追った。当時の具体的な会話はあまり覚えていないが、彼女がそっけなく、一切笑みを向けたりするような子ではなかった。青みがかった縁の眼鏡をかけていて、冬の日差しに光っていた。
 凛恵子の眼鏡のつるに指をかけて取り外す。素顔の彼女は、少し幼い印象を受けた。
「好きだったの?」
「……わからない。もう昔のことだし、あんまり覚えてないんだ。名前も顔も」
 英治は凛恵子の腿の間に足を差しこむ。凛恵子は身体を寄せた。中心の熱に気づかれ、ゆっくりと腿で圧をかけられた。柔らかい重みが、じわりと快感になる。
 記憶の断片が蘇った。あの女の子が笑った記憶だった。思い返した断片が、彼女に触れられるたびにつながっていく。ふいに面影が重なったような気がして、心臓が跳ねた。
「雪女みたい?」
 見透かしたように、彼女が口にした。
「転校したことある?」
「ないよ」
 凛恵子は笑った。
「しゃべっちゃうんだよ。人って。どうしても」
 そういって顔を埋め、英治の背を撫でる。腰を押しつけるが、熱がこもっていても、固さをあまり持たなかった。頭は冴えてきたと思っていたが、全身の倦怠感と変わらない酷さのようだった。
「ごめん」
「謝らないでよ。だって、そういう関係じゃないでしょ」
 彼女は少し困ったように笑みを見せる。息が詰まった。
 凛恵子の頬に触れる。一瞬、熱いのか、冷たいのかもわからなかった。けれどそれは、幻覚だった。彼女の頬はちゃんと人肌で、うなじに手を這わすと汗ばんでいた。
 どうして大人しく、彼女は腕に納まっているのだろう。
 あの子も、そうだった。
 かまくらの中でキスをしたのは、お互いに、そういう興味があったのだと思う。歯のかちあう、ただ口をあわせるだけのようなものだった。どうするべきかということは、英治もわかっていなかった。彼女の肌の柔らかさを、冷たい唇を、汗と混じるシャンプーのにおいをもっと味わっていたい。
 厚手のスキーウエアの上から押しあうだけの刺激は弱く、きつく身をよせなければならなかった。
 スキーから戻ってきたにぎやかな声に気づき、彼女は気まずげにかまくらを出て行った。英治は中途半端な熱と彼女の感触だけを残され、尻が冷えるまでかまくらで座りこんだ。
「大人になんかなりたくなかったな」
 ぽつりとこぼれ落ちた言葉が、耳の奥に残った。窓の外のネオンとパチンコの電飾が、シーツを照らしている。
「わかる」
 凛恵子は泣きそうな顔で笑んだ。しみじみとそういう彼女は、まだ言葉を続けたそうに息を吸いこんだが、何も言わずに目を伏せる。目の縁が腫れていた。
 
 時間が来る頃には、体調はましになっていた。終電も始発もない時間は人影もほとんどなく、静かだった。
 うっすらと夜が明けるきざしが、空に見えていた。英治は薄い膜のような金色の光をぼんやりと見つめる。
 並んで駅まで歩きながら、ぽつりぽつりと言葉を交わし、それ以外は沈黙だった。
 互いに歩ける距離だったが、反対方向だった。駅の構内ががらんどうで、奥まで見渡せるなど、初めてだった。
「じゃ、またね」
 凛恵子は小さくお辞儀をした。
「送ろうか。迷惑かけちゃったし」
「暗くないし、大丈夫」
 黒髪を揺らし、彼女は背を向けた。少し寝癖のついた後ろ姿が名残惜しかった。
「八棟さん」
 呼びかけると、彼女は振り返る。目を伏せることもなく、まっすぐに英治を見返す。
 その、と英治は口ごもった。特に、用があるわけでもない。
「黒髪もいいと思うけど、アッシュとか、似合いそうだよ」
 彼女は少し目を見開いて、小さく微笑んだ。
「深山くんがいうなら、間違いないかも」
 眼鏡を少し撫で、凛恵子は再び、会釈をして歩き出した。英治はしばらく彼が遠のくのを見送り、帰路を歩き出した。
 彼女の声を、仕草を、体温を、思い返しながら歩いた。もう酒は抜けているはずなのに、胸が窮屈だった。
 玄関を開けると、廊下の奥の部屋からうっすらと明かりが漏れている。近づくと音楽が微かに聞こえた。妹がハマっている、韓流系のグループのものだ。
「音漏れしてんだけど」
 英治がリビングに顔を出すと、妹がソファーに寝転がりながら、「お帰り」と迎えた。
「ちゃんと寝た方がいいぞ」
「受験勉強なんだからしょうがないでしょ」
 妹は足を揺らしながら、英治に向かって憎たらしく笑みを向けた。
「今日は土曜だもん」
 勢いをつけソファーから起きあがり、大きく体を伸ばす彼女を横目に、英治は冷蔵庫からペットボトルの紅茶を取り出した。気だるさに身を任せてぼんやりとしていると、妹が目の前に紙を差し出した。
「はい。お兄ちゃんにはがき」
「何?」
「結婚のご報告」
 そういいながら部屋を出ていく妹を少し目で追い、手渡されたはがきに目を落とした。
 小学校の同級生の、結婚の報告だった。明るい笑顔で、仲むつまじげに映る新郎新婦はどちらとも同級生らしく、同窓会をかねた結婚パーティーの出席確認がついていた。QRコード先のメッセージアプリに返信、と書いてある。
 結婚、などまだ先のことだと思っていたが、同級生が結婚をしてしまう年齢になったのか、と驚いてしまう。
 新郎の顔は面影が残っていて、すぐに誰だか分かった。新婦は一瞬誰だかわからなかったが、名前を見て、ようやく、全部思い出した。
 彼女が、かまくらの子だった。
 初めてのキスをした人。眼鏡のあの子。冷たい肌で、いつも不機嫌そうにしていた。
 その彼女は弾けんばかりの笑顔で、日に透ける明るい茶の髪になっていた。
 彼女は幸せになったのだ。自分のことなど、すっかり忘れて。
 ふっと凛恵子を思い出す。あの柔らかな笑みが、足りなくなった隙間を埋めるように、じわりじわりと凍みてくる。
 彼女は、髪を染めないだろう。
 背筋がぶるりと震え、ぐしゅん、とくしゃみを吐き出した。
「風邪え? うつさないでよね」
 妹がひょいと扉から顔を出して、顔をしかめて面倒そうにそういった。
「わかってるよ」
 咳こんで痛む胸を押さえ、英治は掠れた声で呟いた。ため息でさえ震えて、喉が暑い。凍傷のような熱だった。

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