あなたの匂い

その人の匂いを知ったのは、母のまくらだった。

たまたま母の布団に寝転がってみただけだった。平日の昼間、ランドセルを玄関に投げ捨てなんとなく寝室に行っただけだった。平日昼間なら、「お風呂はいってから布団に入りなさい!」と怒る母もいなかった。

母のまくらからは、母のいつも使ってるシャンプーやトリートメントの匂いがした。あと、言葉にできないが、母の匂いが混ざっていた。鼻腔をかすめる匂いだけで、隣に母がいるようだった。匂いで人を思い出せることを、その日初めて知った。

ある日たまたま、雑貨屋さんに入ってみた。多分、待ち合わせまでの暇つぶしだったと思う。香水コーナーで、思わず立ち止まった。誰かが試したのか、ある香水の匂いが広がっていた。私は、この匂いを知っている。ブワッと記憶が蘇る。

この匂いは確か…。今まで思い出しもしなかった人が脳裏に浮かぶ。いつも図書室にいたな。本が好きだったんだか、勉強するためだったんだか、教えてもらったのに覚えてない。声も忘れてしまった。「貸し出しですか、返却ですか?」という台詞だけ覚えている。夕焼けに染まる本棚の前で、少し話したな。ぶつ、ぶつ、途切れ途切れでとても会話と言えなかったけど。あぁ、メガネの度が強いって話をしたな。今思えば、話題も訳がわからないな。笑顔が下手な人だったな。なんか、グシャァって笑顔になるんだよな。でも、そんなところも可愛らしいなんて思ってたな。

そうだ、その時だ。あの匂いを嗅いだのは。隣に立つあなたから、伝わってきたんだ。メガネのズレを直すたび、あなたの匂いが私のところまで届いてドキドキしちゃったな。うちの柔軟剤とも違う、初めて嗅ぐ匂いだからかな。図書室の本の匂いと混ざって、あなたの匂いは完成してた気がしたな。

背が伸びるたびに猫背になるあなたが、いじらしくて仕方なかったな。スカート丈で怒られたと言うあなたに、「成長期だし、仕方ないよ」と声をかけたな。あなたはまた、下手な笑顔を私に向けてたな。

あなたの匂いだった。でも、この場所にあなたはいない。思わず香水の名前を見た。ローズマリーの香りらしい。あなたの匂いに名前があった。嬉しかったのだけれど、なんでだろう。少し、寂しくなった。

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