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書評:中島敦『山月記』

自尊と羞恥の二重螺旋

今回ご紹介するのは、中島敦『山月記』。
高校国語教科書の掲載作として定番で知る人も多い作品だろう。

【あらすじ】
少年の頃より優秀で知られた李徴は、官職に甘んずるのではなく詩を以て名を成さんと志し、人との交流を避けて詩作に励む人物であった。しかし一向に成果をあげることができず、遂には生活のために地方の一官吏の職を得ることになる。かつて歯牙にも掛けなかった学友達が既に官職にて李徴の上を行く職位を得ていることしばしばであり、プライドがズタズタに引き裂かれた李徴は遂に発狂、山奥に向かって走り出したまま行方がわからなくなってしまう。
時は変わり、李徴の旧友・袁傪が部下と共に山道を行くと、そこに一匹の虎が飛び出す。何とそれは、変わり果てた李徴であった。
李徴は袁傪に語る。己が醜い獣の姿に身を落としたのは、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を己心に飼い太らせた故にほかならないと・・。そして旧友にかつての創作物を託しつつも、この後に及んで家族のことよりも自らの詩作を憂う自身を自嘲し、再び山奥へと消えていくのであった・・。

ここでは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という表現について考えてみたいと思う。

用語を分割し、並列してみると、
 ・臆病
 ・尊大
 ・自尊心
 ・羞恥心
となる。

言葉の意味合いから考えると、「尊大」と「自尊心」がニュアンスが近く、対して「臆病」と「羞恥心」が近いように思えないだろうか。もしそうならば、
 ・尊大な自尊心.
 ・臆病な羞恥心.
という表現の方が自然ではないか。そんな疑問が浮かんでくる表現に思える。

では何故作者は一見あべこべに思える言葉の組み合わせを選んだのだろう。そこには作者の意図があるように思えてならない。

私は以下のように考える。

まず、「尊大な自尊心」と「臆病な羞恥心」を比較すると、両者は全体として対義的な意味を持つことになるだろう。言わば、両者は別物だ。

対して次に、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を比較すると、両者が合わせて全体となり、一つの性質を示すもののように思えてくるのだ。詳しく記述するならば、「尊大(=自惚れ)」は、自身が実は俗物であることが明らかになることを恐れる「羞恥心(=恥)」を掻き立て、恥は「臆病(=恐れ)」に至り、恐れは反動として虚栄や空威張りといった「自尊心」を肥大化させる、それがまた「尊大(=自惚れ)」を増幅させていく・・、という負のスパイラル構造が全体として形成された状態が見えてくるように思えるのだ。

姿が虎になる程にまで己心を食い破る性質とは、このように制御できない程に自増する、飼い太ってしまう心の醜さであり、作者はそれを表現したかったのではないだろうか、と私は解釈した。

このように読んだ時、本作が描いた李徴の醜さは、制御し難い自壊のプロセスとして人間が誰しも抱える本質的な脅威として、読者に戦慄をもたらすだろう。いや、誰のことでもない、私自身だろう。私はいつでも虎になり得る。否、もうなっているのかもしれない・・。

本作が持つ自惚れや虚栄に対する警句性は強烈だ。いつでも胸に手を当て、自身を作品と照らして厳しくあらねばならない。そう思わせてくれる作品であり、また自身を照らす鏡、自身を計る物差しになってくれる作品だ。誰に対してでなく、私自身への戒めとして、本作を捉えている。

生涯手放すことができない作品だ。

読了難易度:★☆☆☆☆(←言葉が難解だが10ページの超短編)
自己鞭撻度:★★★★★
トータルオススメ度:★★★★☆

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