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第35話.閑古鳥

1969年

1969年秋、一通の会議通知が廻ってきた。新しい機種の開発にあたって、先行検討チームが編成され、私はそのメンバーの一人に選ばれる。本田技研工業株式会社(以下ホンダ)社長の本田宗一郎氏(以下本田さん)が、兼任していた研究所の社長を、若い世代に譲られ最初に開発する機種であった。
私はそれまで、「ホンダN360」や「ホンダH1300」シリーズなど、ホンダの主要機種の外観デザイン業務に携わり、まもなく30歳という頃のこと。選ばれたことに大感激しその興奮の中、研究所所長から「すぐ鈴鹿に行ってラインを見てこい」と言われた。
鈴鹿工場につくられた最新鋭の組立ラインには、我々が鼻高々でつくったH1300がポツンポツンとしか流れていない。「閑古鳥」が鳴くとはまさしくこのこと、さすがに青くなった。この光景を見てこいと言われたのだ。
鈴鹿から帰り、検討チームは数名ずつ二組に別れた。それぞれに「若者組」「年寄り組」と呼ばれたが、30歳前後組と30代後半組と言った方が当っていた。二つの部屋に別れ、「缶詰」になって議論が始まる。缶詰とは、一っ所に閉じこもって考え抜くこと。そのころ回し読みしていた本に、堀越二郎の「零式戦闘機」がある。みんなは既にその本を読んでいた。
そこには零戦がどのようにつくられたかは勿論、それに関わった人たちの考え方や国を思う心などが手に取るように描かれていて、自分たちの置かれた状況と重ねて心を躍らせた。
若者組の議論は、本音では「スポーツカーを」という気持ちも強かったが、みんな真面目に世の中のことを考えていた。最初は車についてのロマンや社会への役割と言った議論もあったが、いつの間にか、今までの仕事の反省会になっていた。
話を聞くうちに、私だけではなくみんなも、いろいろと失敗しているんだと知って急に気が楽になる。そのうち自分たちの好きな車の話になり、お互いの好みや人柄も分かり合え、いろんな考えの人がいるものだなと理解。
最初に所長の方から、年寄り組はコスト・重量重視型、若者組は性能・車格重視型で、という程度の投げかけはあった。が、どちらの組にも、「大きな車にはしたくない」との阿吽の呼吸が。
お互いにエンジンは800~1200ccぐらいまでと申し合わせ、それ以外は相手かまわずで、それぞれに熱のこもった議論を展開。年寄り組はホンダのあるべき姿を標榜し、若者組は暴走もせず真面目にまともに考えを詰めていった。

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