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第96話. 入口と出口

1980年

「門番がしっかりしなきゃね」と本田さんに。私がデザイン室の技術総括になって間もなくの頃。2代目プレリュードに続き、3代目「ホンダシビック」のLPL(機種開発責任者)代行も任されていた。仕事は切れ目なく、息つく暇もない毎日。緊張し背伸びもして、実力以上の役目をやっとこさこなしていた。
日曜日の朝一番に、頭でもさっぱりすれば気分も変わるだろうと、行きつけの床屋へ。「いらっしゃい」とおやじの元気な声。「今日はどこかへお出かけで?」と言いながら、手際よく蒸しタオルで髪を整える。「奥さんと映画でも?」と聞かれてつい、「まあそんなとこ」と答えた。予定などまったくない。
「いつもの通りで」「そうね、もみあげを自然に」などと注文。その後ひとしきり野球の話。おやじは熱狂的な巨人ファン。「最近の阪神、元気ですね」と、こっちのこともよく知っている。そのうち、知らぬ間に若い衆に代って鋏を入れたり剃刀を当てたり。
そろそろ仕上がりかなと思っていると、再びおやじが愛想良くやってくる。「さっぱりしたですか」と言いながら鋏で数カ所ちょきちょきと。どこが問題なのか毎回必ずやる。そして手鏡で後ろの方を見せながら「いかがでしょう。今日はちょっと短めに。そろそろ暑くなりますから」と。「結構です」といつものように。
その後、小さな箒のようなもので細かい毛を払いながら「今日は銀座ですかね」と、これもいつも通り。「まあ、そんなとこ」と、これで何回かみさんと銀座に行ったことか。背中で「いってらっしゃい」という声を聞きながら、すっかり元気になっている自分に大満足。結局、銀座へ映画を見にゆくことに。
はめられた感じはなくもないが、悪い気はしない。「やっぱり銀座はいいね」などと言いながら店を覗く。ふたりとも大人になった気分での「銀ぶら」。  
映画を見てお茶を飲んで、子供達への土産も買って、いい気分で家路につく。ところであの床屋のおやじ、おれと同い歳だと聞くが中々のもの、学ぶべきところが多い。それに引き替え自分ときたら、忙しさを丸だしに難しい顔で毎日仕事をしている。急に自分が情けなくなった。
お客さんが入ってきたら、愛想良く「いらっしゃい」。仕事は思い切って若いのに任せる。仕上げはきちんとチェック。終われば「いってらっしゃい」と元気よくお客さんを送り出す。結構あのおやじ、入口と出口を一人でしっかり守っているぞ。見習って明日から頑張ろう。


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