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第137話.幻の栃木デザイン室

1987年

和光研究所から北へ数キロほど行くと、武蔵野の面影を残す雑木林の中に平林寺という禅寺があり、その庭を借景にした「新玉」という料亭がある。同年輩の一家言ありそうな昨日ブロックを代表する連中10人余りが集められた。
3代目「ホンダシビック」シリーズの成功で元気いっぱいの頃(83年)である。真昼間だから宴会ではない。昔から、頭を切り替えたり、新しい玉(技術の種)を生み出すためによくここが使われた。
が、今回はちょっと様子が違う。本当のところは、昼に出る鰻重が旨いので、文句を言わずはせ参じていたのである。見渡すと、各機能ブロックの主だったメンバーが集められているようだ。
招集方の管理室長から、研究所社長からだという主旨説明が始まった。「研究所を、栃木に移転したいという話は知っての通り。しかし、この件に関して、反対者が多いのは心得ている。特に今日集まってもらったみなさんは、その急先鋒であることも、百も承知である」、とかぶせてきた。
そして、「もし、ここにいるみなさんが喜んで行ってやると言ってくれれば、研究所全員、揃って行ってもらうことも可能だろう。なかでも、デザイン部隊が行くと言えば申し分ないところだ」と言って私の方を睨んだ。
急に優しそうな顔になって、「そこで相談だが、みなさん自身、『何』があれば行ってやっても良いと思うのか、一つだけ、遠慮のないところを言ってくれ。では、一人ずつ順番に」とのことであった。
設計部やテスト部隊からは、いろいろと意見がでた。例えば、作業スペースや設備の充実、生活や育児環境の保障など、おしなべて文化的、知的環境の充実に対する期待が大きい。ついに私のところに廻ってきた。
私は、デザインを東京から離れたところでやるのは難しい。しばらくの間は良いとして、そのうちに郷に入るのが。おちだどんなことがあっても行きたくないし、行くべきでないと思っている。だから、叱られるのを承知で、「国際空港をつくって下さい」と言ってみた。
これにはみんな驚いた様子。大いに反響があり、全員が「また、あいつか」という感じで私を見る。集められたメンバーは、この会議が終わると自動的に、研究所を栃木に移転させるための諮問委員になる予定だったらしい。
が、次の会議からは、私だけ呼ばれなくなっていた。のちに、管理室長から聞いた話では、社長に報告したら「ふーん」と言われたきり、コメントはなかったと言う。

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