第225話. 再び、マネすんな
1999年
1950年代の終わり頃、「ホンダスーパーカブC100(1958年)」が大ヒットした。このオートバイは50ccのモペットタイプで、クラッチレバーがなく片手運転が出来るというので重宝がられ、蕎麦屋の出前や新聞配達など、町の商店の間では大変な評判となる。この成功を見て他社もこれに追随し、街中この手のバイクが走り回り、Y社のカブ、S社のカブと呼ばれるようになった。
この頃ようやく日本にも、意匠権というものが意識されはじめ、係争の結果ホンダが勝利する。当時のお金で数億円を、相手会社がホンダに支払う羽目となった。が、社長の本田さんは、ホンダが創ったと分かればそれでよいとして、お金を受け取らない決定をしたのである。とらぬ狸を決めていた営業、生産、開発の重役は悔しがったと聞く。
翌朝の新聞はこれを大きく取り上げた。これによって世間は、やはりホンダのオリジナルだったと知ることに。本田さんの思い切った決断によって、かえってホンダの独創性が世に認められることになり、同時に社内にも独創性の重要さが強く意識付けられたのである。
大戦後間もない食糧難の頃、奥さんの買出し用にと自転車に小さなエンジンを付けたホンダA型(1947年)、その改良型の白いタンクと赤いエンジンのカブ号(1952年)、これらの開発が勝訴の決め手となった。
1964年に新入社員となった私たちは、良い会社に入ったという誇りと同時に、真似は絶対にしてはならないという強い覚悟をもった。定年を迎えるまで、その気持は変わらずにもち続けた。今でも、本田さんの「マネすんな」という声が聞こえてきそうだ。そして発売後46年経った2006年現在、スーパーカブは世界で累計5000万台の販売を記録し、今もなお売れ続けている。
本田さんは夢を大切にした人。苦しい経営状態の中、世界の最高峰であるイギリス、マン島のTTレース(Tourist Trophy race)に挑戦し、世界一になる夢を実現しようと若い従業員に呼びかけた。そして3年後の1961年、ついに完全優勝を果たし、さらに2年後の1963年、ホンダは満を期して自動車産業に参入した。
私はそんな時、ホンダが発表した試作車「ホンダS500」を見て、ホンダという会社に入る決心をしたのである。入社した次の年の1965年には、自動車レースの頂点であるF1のメキシコグランプリで優勝を果した。「こうなりたいと強く想えば、そうなれるんだ」、ということを身近に知ったのもこの頃である。20代半ばの胸は大いに膨らんだ。
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