見出し画像

千字薬 第2話.造形室

1964年

画像1

「1週間経ちましたので、そろそろデザイン室に連れてって下さい」と、私はたまりかねて室長にお願いした。そうしたら、「ここがデザイン室だ!」と一喝。ショックは大きかった。それもそのはず、作業場で実習していると思っていたからだ。

入社してすぐ、1週間ほど先輩の下で日常のことを教わり、そのあと正式に配属を決めると言われていた。「造形室」と呼ばれる20×10メートルくらいの部屋には、2輪と4輪と農機のモデルがところ狭ましと並んでいた。
私は学生時代、ロスアンゼルスのアートセンターに留学したという教授から、GM社をはじめ、米国の自動車会社のデザインスタジオやデザイナーの様子など、写真を見せてもらったり話を聞いたりして胸を膨らませていた。そんな訳で、その後しばらくはショックから立ち直れないでいた。
こんな私を救ってくれたのが、毎朝タイムカードを打つ場所に掲示されている2輪のレース結果と、造形室の一角に置いてある1台の金色に塗られたF1レースマシンだった。

2輪のレースは、すでに世界の桧舞台で、タベリやレッドマンの連勝に次ぐ連勝で意気は上がっていたし、4輪のレースも、これから世界へと熱い期待の毎日。今日只今の「ドキドキ」と、明日に向けての「ワクワク」は間違いなくあった。
それにしても、4輪のクレイ(粘土)モデルをつくるのに、据え付けの2×4メートルの定盤(モデルの寸法を測るための正確な平面を持った鉄製の台)が1枚、コンクリートの床に埋め込まれているだけ。
手動式のレイアウトマシン(モデルの縦、横、高さの座標値を一度に測定できる測定機)さえも、検査課から必要に応じて借りてくるという始末。いつもは2メートルの長い金尺と大型トースカン(高さ罫書き具)で作業をしていた。こんな中から、本当にS600が生まれたのだろうか。

そのまま暫らくは決まった仕事を与えてもらう訳でもなく、ときたま頼まれるスケッチの図面化などに明け暮れる。そのうち何だか、次から次へと図面の仕事が廻って来るようになった。どうやら、あいつは生意気な奴だが図面を引かすとわりかしやれるぞ、と評判になっているらしい。
先輩たちはこの手の仕事があまり好きでなかったらしく、この後、来る日も来る日も図面を引く日が続き、中々デザインをやらせてもらえなかったが、「自分で決めた道だから」が支えだった。何はともあれ私は、造形室で20番目のデザイナーになったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?