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第60話.天地人彼我

1973年

「鋏とマジックを持ってすぐ来てくれ」と会議室に呼ばれる。そこでは研究所常務をはじめ何人かの役員が何やら真剣に話し合っていた。壁一杯に模造紙が貼ってあり、そこには日程表らしきもの、訳の分からない数字やアルファベット、それに赤丸や矢印が一面に書かれている。初代「ホンダシビック」の発売後、カリフォルニア排気ガス規制対応のため、世界の先陣を切って開発したCVCCエンジンが世界の注目を集めていた。
早速に、「これを書いて、あそこに貼れ」「それを切って、ここに継ぎ足せ」との指示が飛ぶ。言われた通り手を動かしているうち表が完成。それを眺めながら、「ここに書いてあるのを、営業担当役員に『これはいいね』と言ってもらえるようにうまく清書してくれ」と。
「はあ」と言って内容を見たが、エンジンのことらしいが難しくて理解できない。「私には無理です。エンジン屋さんの方がよろしいのでは」と言ってはみたが、「解らん奴がやるからいいんだ」と押し切られた。逃げられないと観念し、腰を落ちつけて表をじっくり読むことにした。
内容は1500ccCVCCエンジンの改良と搭載の手順、それにCVCC化した1300ccエンジンの適用拡大とその手順などが時系列に書いたもの。何とか自分なりに理解はできたが、これをどのように表現すれば営業役員の理解が得られるのか心配だ。
まず何故これをやるのか、何故このやり方が良いのかを常務に聞いてみた。所内を廻り多少の勉強をしてあったので、どういう考えでこのようにしたのか直ぐに理解ができた。
この頃、立案する時の心得として「天地人彼我」という考え方を教わっていた。「孫子の兵法」である。すなわち、天の利、地の利、人の利を良く知り、敵、味方の実力を知り尽くしてことに当たるというやり方で、今回の提案にもその手法が取り込まれていた。
早速、営業やサービスの人、販売店の人、さらにはお客さんの顔を思い浮かべながら、理解され易く喜んでもらえる表現方法を考える。硬くなり勝ちのスケジュール表を、世の中の傾向、法規の動向、他社の出方などを盛り込み、色を付けたり多少漫画的と思われるくらいに分かり易く。
あとで、「一寸恥ずかしかったが、解ってもらえたよ」と喜ばれる。以来、この手の仕事が続々と舞い込むようになり、「書き屋」とか「切り屋」と呼ばれるようになった。
本来の仕事の時間は取られるし、代書屋みたいで最初のうちは「またか」という気持ちにもなったが、こうした作業を通じ、トップの人たちの考え方やそのレベルの高さをつぶさに知ると同時に、戦略的思考法が身に付いたと思っている。

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