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第144話. スポーツカーか高級車か

1988年

久しぶりに、本田さんがデザイン室を覗かれた。「これを見るのが目の保養、お陰で楽しませてもらっている。これが元気のもとだよ」と、とても80才を越えた方とは思えない。興味はなんと言っても高級車レジェンドである。
「上手くつくるようになったなあ」と褒めてもらってその気になっていたら、「まだ、私なら買わないねえ」と手厳しい。この頃丁度、レジェンドのモデルチェンジと並行して、本格スポーツカーのデザイン作業が始まっていた。が、こちらは全く見向きもされなかった。
終始にこやかに、若い連中を労い冗談を飛ばしたりながらモデルを眺めていた本田さんは、「さて、これでまた元気をもらった。どうもありがとう」と言ったあと思い出したように、「経営者じゃないから、こんなことを言う立場じゃないが」と念押しされ、「高くて何台も売れないスポーツカーでは会社が潰れる。高級乗用車がたくさん売れた方がよい。レジェンドをいい車にすることが先だね」と。
その後、本格スポーツカーの開発が完了し、そろそろ研究所の手を放れるという頃、本田さんに栃木のテストコースで試乗をしてもらうことになる。「わたしゃ年だから家内に免許を取り上げられてね。外(一般道)じゃ乗れないんだ」と笑いながら、屋根が低く若い者でも乗り込みにくい運転席に座られた。
しばらくは感慨深げにハンドルを撫でておられたが、隣に座る若い走行テスト担当の「どうぞ」の声にアクセルを。本田さんの操縦するスポーツカーは、快音を残して小さくなった。25年前、真っ赤なS500に乗り手を振っている本田さんの写真に出会って、入社を決意した時の思い出が重なり、遠ざかってゆく車がにじんで見えた。
このスポーツカーは、1年後ホンダ「NSX」という名で世に出た。発売当初は、折しもバブル絶頂期(いや、すでに翳りが見えていた)で受注が殺到し、1000万円に近い車の販売が、月に1000台を超えた。日産25台の手作りラインもフル稼働。ついに増産に踏み切り、本田さんの心配も外れたかと一瞬思えた。
しかしよく注視すると、投機的な買った人たちが多く、気を付けなければと思っていた矢先、バブルが崩壊した。受注の激減に生産対応はおおわらわ。私は4輪企画室長として、しばらくはその対応に追われることになる。
やはり本田さんの先見どおりだったかと。「レジェンドを良くすることが先」との言葉が耳に痛く残った。


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