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革命家孫文を支えた津軽人、山田良政・純三郎兄弟

紀伊国屋書店弘前店は閉店してしまったので、帰省の際の郷土本探しは、ジュンク堂弘前店で。ジュンク堂の郷土本コーナーはがんばっていた。今回買ったのは、写真の2冊。

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弘高ねぷたの歴史にもふれていて興味深い。もう一冊の「教科書と一緒に読む 津軽の歴史」は、弘前大学教育学部関係者による共著。孫文を支援した津軽人の章を見つけて買ってしまった。

青森)「弘前ねぷた本」発刊 36年ぶりの公式本:朝日新聞デジタル

新潟に戻ってきて、「教科書と一緒に読む 津軽の歴史」の「革命を支援した津軽人」の章を読んでみる。ここで扱われている津軽人というのは、山田良政・純三郎兄弟。2人の顕彰碑が、弘前市新寺町の貞昌寺にある。地図で見ると、弘前高校のすぐ近くなのだが、ここに立ち寄った記憶はない。

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山田良政は、孫文による1900年の恵州蜂起に巻き込まれてなくなっている。恵州蜂起は、山県有朋内閣の総辞職で日本が孫文支援の「はしご」を外したことで失敗、撤退する革命軍と行動をともにした良政は、清朝にとらえられて処刑されている。

弟の純三郎も兄の意志を継いで孫文を支援し、日本軍に見放された孫文にも最後まで寄り添って、臨終の場にも立ち会った。1947年に引き揚げるまで日本語学校の校長をしながら、上海に滞在していたという。

山田兄弟は、東奥義塾に学び、弘前で向かいに住んでいた陸羯南の影響を受けて、中国に渡ったという。

貞昌寺には、石田三成の娘、辰姫の墓もある
貞昌寺のことを調べていくと、石田三成の娘、辰姫の墓があることもわかる。

辰姫は、二代藩主津軽信枚に嫁ぎ、三代藩主信義を生んでいる。つまり津軽藩の三代藩主は、石田三成の孫ということになる。信枚は後に徳川家康の養女・満天姫を正室としたため、辰姫は側室となり、大舘(現在の群馬県太田市尾島町)に暮らした。

尾島には、この縁により、尾島ねぷたがある。というのは、なんとなく知っていたが、尾島の場所を調べてみたら、埼玉工業大学のある深谷市のすぐ近くであった。

青森県りんご輸出協会のウェブページにも、山田兄弟の記述がある。本の中では、東日本大震災の後、台湾への輸出回復に、彼らの記述が役立ったと書かれているが、それについての具体的な記述をウェブから見つけることはできなかった。


山田兄弟については、以下のような本が出版されていることもわかった。


孫文を支えた人物として、梅屋庄吉や宮崎滔天のことはよく知られているが、津軽出身の山田兄弟のことは、自分自身も知らなかった。若くして革命の道半ばにして散った兄良政。日本からも支持を得られず、苦しい立場にあった孫文を支えた弟純三郎。いずれも地味なところで「革命」を支えていたわけだが、彼らに注目する人は、青森でも少ないのではないか。あらためて注目して見る価値はあるだろう。

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