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ひめゆりの塔事件と美ら海水族館

1947年の「天皇メッセージ」の意味

今回の授業の中では、琉球新報のデジタル推進局長の 滝本匠さんに講義をお願いしました。基地問題を始めとするさまざまなトピックの中で、昭和天皇は沖縄をどう考えていたのかも話題になりました。その中で紹介されたが、1947年の「天皇メッセージ」です。これは1947年9月、昭和天皇が米国側に対して、沖縄の軍事占領に関する見解を伝えたものです。

(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
 メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。
 1979年(昭和54)にこの文書が発見され、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。


ひめゆりの塔事件


その後昭和天皇は、沖縄を訪問する機会を持つことはありませんでした。代わって返還後の沖縄を訪問したのが、当時の皇太子、現在の上皇上皇后両陛下なのですが、最初の訪問になったのが1975年、沖縄国際海洋博覧会のときでした。このときに、ひめゆりの塔事件が起きています。以下は学生メンバーの宮澤さんのまとめです。

沖縄本土復帰記念事業として、沖縄国際海洋博覧会が、1975年に本部町で開催されました。これに際し、当時の皇太子および同妃が沖縄県を訪問し、献花のために糸満市にあるひめゆりの塔を訪れることとなります。

このとき、「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げていた沖縄解放同盟準備会は、「流血も辞さないたたかいで皇太子上陸を阻止する」と宣言し、「十五年戦争における大日本帝国による侵略・植民地主義弾劾」「沖縄戦における日本軍による住民虐殺弾劾」及び「戦争犯罪人・ヒロヒトおよび、その代理人である皇太子を糾弾する」として、1か月間の「皇太子上陸阻止闘争」を展開することを決定します。

宣言通り、2人の沖縄の民により皇太子の足元に向けて火炎瓶と爆竹が投擲され、火炎瓶は献花台に直撃して炎上しました。このとき両陛下は間一髪で難を逃れ、その後もスケジュールを変更することなく、訪問を続けられました。また、その後も繰り返し沖縄を訪問されており、慰霊を続けてこられた両陛下の出発点に、この事件があったという見方もできそうです。

沖縄国際海洋博覧会「海洋生物園」

1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会は、「海-その望ましい未来」を考える博覧会でした。以下の記録映像の中では、当時の皇太子の挨拶の映像も含まれています。

本土復帰後の沖縄で、急速なインフラ整備を実現させたのもこの博覧会でした。高速道路の一部区間整備、国道の拡幅、大型のホテル、観光施設の建設が、この時に一気に進んだとされています。

海洋博の終了後、跡地は国営沖縄海洋博覧会記念公園となり、パビリオンのひとつ「海洋生物園」が国営の水族館として営業します。この国営沖縄記念公園水族館が老朽化し、2002年に建物が建てかえとなり、リニューアルオープンしたのが、現在の美ら海水族館ということになります。


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