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日常と外から見る日常、自分を保つ

日常はただ続いていく。今までの生活と同じように僕はここに生きていて、これからもその延長だ。朝起きて顔を洗い、コーヒーを淹れて光を浴び、仕事をし、疲れたら外に出て、ふたたびコーヒーを淹れて、ごはんを食べて、これらを家族とともに過ごす。いたって変わらない、たとえ変わったとして自分がここにいることは変わらない、多少の高低はあれどそういう生活がただ続いていく。

人間は欲深いもので日々飽き足らない。たとえ幸せであっても、幸せであることを毎日たしかめながらでないと過ごせない。毎日SNSで垣間見る他人の日常や華やかな世界に憧れたり、その中で流通されるものに嫉妬したりする。見なければいいのにとも思うけど、そこで得られる短期的なリアクションを求めるばかりにまたアプリをひらいてしまう。

メディアは虚構である。SNSも含む。切り取られた日常は、その人のほんの一場面でしかない。そもそもそういう姿に感情が揺さぶられてしまうのは、今自分が立っているこの足元がたしかでないのだ。ちゃんと筋肉を使って立っているか。歩いているか。そこが問題だと思った。画面の一歩手前の自分の肉体がここにちゃんと存在しているか。

そう、ほかの人も同じ日常を歩いている。華やかに見える人も、いつも楽しげな人も、外からは見えないところで地続きの日々を過ごしていて、ときどきそこに思いを馳せたりしている。

つくることは足元をたしかにしてくれる。目を背けて散らばり転がしてきたものに注目して取り組んでみる。目指してみる。想像してみる。人の話を聞く。がんばらなくていいけどがんばってみる。手を伸ばしてみる。嫉妬しているのは他の人のそういう姿かもしれない。

悔しくて、でも自分をちゃんと見てあげる。急がない。長い目で。ぐっと深く潜ったその先に、別になくてもいい、その過程が積もって人生をつくる。

真面目にやる。誰もみてくれなくても、自分のためにやる。「最も個人的なことは最もクリエイティブなこと」だ。自分はここにひとりしかいない。しかしクリエイティブを目指さなくてもいい、モノでなくてもいい、繰り返しでもいい、素人でもいい。自分が喜ぶことを、悪意なく、ひたすらにやること。メディアを虚構とみなせるように、日常を虚構に落とし込まないように。

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