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嫌いな人が嫌いなものについて

嫌いな人が好きなものをなぜか嫌いになってしまうことがある。もし私が好きなものを私が嫌いということである人が嫌いになるのだとしたら悲しいことだ。好きになることに愛が分有されているのならば、それはむしろ自分が嫌われていること以上に耐えられないことでもある。ではなぜ、嫌いな人と別物のはずのあるものを人は嫌うことがあるのだろうか。

一つ考えられるのは、人が愛する対象を自分の一部とするという事実を人は感じ取る能力があるということである。というのも、本来ある人と、その人が好きなものは全く別のものだからだ。例えば、ミカンが好きな人がいたとして、その人とミカンが同じとは考えないだろう。しかしその人が嫌いだとミカンが嫌いになったりする。ということは、ミカンを見ることで嫌いな人が想起されるということかもしれない。だとすると無意識はミカンと嫌いなある人を結びつけてしまったということになる。

そうなると、なんでも嫌いになりかねない。というのも、すべてはつながっているからだ。国境を隔てたところに住んでいる人は同じ世界に生きている。精神的にはまったく違うところにいるかもしれないが、現実世界はつながってしまっている。大きい話にしてしまうと、戦争の原因の一つはそうしたちょっとした食い違いと錯覚なのだ。

私はちゃんとわかること、つまりは区別し、それぞれを認識し、理解し、またつなげることをすすめたい。そしてそれは誰かを救うことにもなる。その人を嫌いならそれはそれでしかたない。しかし、その人につながっているすべてを嫌うのは人間のやることではない。そこには動物的な偏執狂のにおいがする。以前凡人は凡人の話を聞けないという話をしたことがあるが、これも同じことで、そういう人たちはわかっているようで何もわかっていない。多分そういう人と議論しても何も生まれない。忘れるという偉大な能力を人は持っているはずだった。

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