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帰りたくないときの話

帰りたくないときがある。例えば昨日のお出かけの後。私は駅でベンチに座り、しばらく帰らなかった。そのお出かけは街の図書館に行くというものだった。だがしかし、本当のところ、場所などどうでもよく、出かけたかったのだ。家には本があり、時間はつぶせるが、私はそれに苦しくなり、出かけた。私が欲したのは感情が動くことであり、加えて体が楽しみを持つことだった。

年齢的に楽しみを持つのは苦しくなっている。若いときというのは楽しみに溢れている。ということは逆に苦しみにも溢れている。幸い、私はそんなに感情深い人間ではなかったので、どちらもそうでもなかった。「感情は人生の善悪のすべてである」。人生がいいといえるのも、感情がよく動き、それを感じ取れたからだ。

『僕たちはガンダムのジムである』にも書いてあることだが、凡人には凡人の戦略と生き方がある。それを否定した私は不幸な凡人だ。いまから戦略的に行かなければならない。だから私は凡人の中でもダメな凡人の部類だ。生き残れるかは大事な問題だ。場所によっては簡単に大物や優秀な人に屠られる。最後衛だからといって後ろから攻められないとは限らないのだ。

結局昨日は帰ってから『僕たちはガンダムのジムである』を読めたのでよかったのだが、図書館の帰りの駅では帰りたくなかった。どこかへ行きたいがどこにも行くあてがなかった。それこそランプインテレンの「カームダウン」の世界だ。歌われる男は最終的には帰ろうと決意するけれども、私は帰ろうかと思い腰を上げるのに苦労した。そういうとき行くのが図書館だったし、その帰りとなればどこも行くところがない。

私は文章をもう読みたくなかった。それは文章は明らかに精神のためのものであって、どこでも同じものだからだ。私はいまここをどうにかしたかった。文章は永遠不変の事柄に関わっている。その限りで私の精神は実存主義に傾いていた。だがそれも見かけだけのことだ。実存主義は構造主義にやられたのだから。ただいまでも根強い人気があるのはそういう気持ちになることがよくあることだからだろう。

そうである。私がしなければならないのは、仕事の質の向上だ。スピードを上げながらきれいに仕上げる。これしかない。休みとは仕事の休みであって、体を回復させつつその間に解決策を見つけなければいけない。ちょっとしたことで時間がかかってしまうということは、逆もあるので、まだ希望がある。

今日も「ジム」の生活が始まる。今日も無事終われれば御の字だ。『僕たちはガンダムのジムである』を読めた昨日に感謝。

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