見出し画像

父のキャッチャーミット 1

その1 消えた故郷 
 温暖な気候で知られる静岡でも、富士山に近いこの霊園のソメイヨシノは、四月といえども、ひと月遅れて開花の準備を始める。
 墓地に向かう道の両側には、桜の木がその蕾を開くために、つやつやした葉を蓄えていた。この霊園の桜はとくに有名で、東京や神奈川など周囲の県からもたくさんの人がやってきて、時期遅れの花見で賑わう。
 この日も辺りが冷気に覆われつつ、どこまでも透き通っていた。富士の山頂も春の陽光を反射させて、手を伸ばせば届きそうなくらいその山際の白さをくっきりと際立たせていた。
 巷で花見の便りが届くこの季節に、毎年わたしの父の命日を迎える。父が死んで今年で二十五年目になる。
 わたしの長男が生まれた翌年に、父は死んだ。七十八歳だった。 
 父は大工だったが、難病のため長時間働けなかった。自分の代わりに家計を支えるのは、定時制高校に通いながら働く兄だった。父はそんな息子に気を遣う優しい人だった。
 家族は六人いた。父と母、それに長男と末っ子の弟である私。そしてその間に挟まれるようにして二人の姉がいた。
 わたしたちは三十年ほど前、北海道の東の町から富士山と駿河湾に囲まれた風光明媚なこの伊豆の玄関口ともいえる静岡県のS市に引っ越してきた。わたしが高校に入ったばかりの五月の末の出来事だった。
 生まれて初めて乗った飛行機が羽田に着き、生まれて初めて乗った新幹線で三島に着いた。
 東京から三島へ向かう新幹線の車窓の風景は、北海道の小さな町から外に出たことのない私にとって、かつてわたしが想像していた南国そのものだった。さらに碧海がかった富士がそれに神秘的な美しさを加え、私を幸福感で満たしてくれた。
 わたしが住んでいた炭鉱町は、春とは名ばかりで、空は鉛色で重く、錆びた炭鉱住宅の赤茶色のトタンの屋根と薄汚れた雪が残っていた。いつでも灰色に覆われたような北海道の小さな町は、村でも町でも市でもないY炭山という名だった。炭坑名がそのまま町の名称だった。そこは道東のK市とA湖の間にあるほんの小さな人造町だった。
 人口七千人で大正時代にスタートしたこの炭坑はK市まで鉄道を敷き、重厚な機関車を走らせ、幾度かの落盤事故を乗り越えて、北海道随一の炭鉱町に発展した。
 わたしの生まれた年には人口が二万人近くに膨れ上がり、炭鉱町は最盛期を向かえていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?