5ヶ月間、「仕事はこわくない!」という大合唱を聴いた in Brazil
大学4年生の夏。
わたしは「やりたい仕事」を見出せぬまま、就職活動が難航していた。私の気力と共にエントリーできる企業も段々と無くなっていった。
そんな折、母が言った。
「あんたさ、ブラジル行ってみない?」
その言葉から3ヶ月後。
平均気温31℃、湿度70%越え連発の熱帯雨林に私はいた。
ブラジルはアマゾン有する都市マナウスにて、現地学校で日本文化のボランティア教師をすることになった。
就活に失敗し、「仕事」や「社会」にどこか怯えていた私は、小さなジャングルの中にポツンと立つ、ワニが散歩するあの学校で「仕事はこわくない!」と教えてもらった。
うさぎは大男のエンジニア
わたしが働いたその学校では、教師同士がお互いをあだ名で呼び合う。
日本ではまず馴染みそうにない、このあだ名文化が新鮮だった。
あだ名文化は「社内コミュニケーション円滑化」の立役者となっていた。
お調子者の敏腕エンジニア「カレフ」のあだ名は「コエーリョ=うさぎ」だった。何とも可愛いあだ名だが、彼の見た目は"プロレスラー顔負けの大男"。しかし、いつも陽気に鼻歌を奏でているそのお茶目さから「うさぎ」というあだ名が付いたという。
彼は学校のあらゆるシステムを直す"何でも屋"の敏腕社員であったから、わたしの日本文化教室のネットワーク環境が悪くなった時に同じ2階にある彼の部屋を訪ねようとした。
しかし、最初はその見た目の怖さから容易に近づけずにいた。そんなわたしを見かねた同僚が、「早くコエーリョ(うさぎ)に頼めばいいだろ?」と言ってきた。
「コエーリョ(うさぎ)?あの大男が?」
その時に彼のあだ名を私は初めて聞いたのだ。
ポップなあだ名を聞いた瞬間に一気に親近感と話しやすさを感じた。それに「うさぎというあだ名を付けられた人に怖い人はいないだろう」と訳のわからぬ偏見を持つことができ、本当は優しい大男に声をかけることができた。
そしてコエーリョとは”ブラジルの兄弟”と呼ばれるほど仲良くなった。
校長や教頭(上司)も例にもれず「あだ名」があり、そのことで上下関係を意識しすぎることなく、その学校ではみな自然とコミュニケーションをとることができていた。
私は社会で働く人は、雲の上とまでは行かないが、自分よりも4、500メートルほど上にいる人たちである感覚があった。
しかし、その学校で教えてもらった。
同僚も、上司も、教頭も、校長も一人の人である。
口笛を吹くこともあるし、鼻歌を歌うこともある。大声で笑う日だってあるだろう。自分が思っているほど何を考えているか分からない、得体の知れない人ではないということを。
日本で「あだ名文化」は適応できないかもしれないが、少しの気軽さを提供できる「呼び方」や「接し方」があれば、「社内コミュニケーション不足問題」に微風くらいは起きるかもしれない。
しっぱいは、調理するもの。
夏休み直前。
昼休みのサッカー大会と"うさぎと愉快な同僚たちのオーケストラ"が大いに盛り上がりをみせている6月某日の12時半。
わたしの顔は真っ青になっていた。
「うそだっ!!!!」期末テストの校長提出の締め切りを1週間誤って認識していたのだった。そのことに気付き、15時過ぎ、重たい足取りでやっと校長室に向かった。
日頃、職員室で花火が上がったような大きな声で笑い、会議の時は虎の風格を出す校長先生は、よく私を「ご飯はどう?ジャカレ(ワニ)はもう食べた?笑」とわたしを息子のように可愛がってくれていた。
「Diretora、desculpe(校長先生、ごめんなさい)、、、、、」
①提出期限を間違って認識していたこと。②急ピッチで仕上げ明日に提出すること。この2点を伝えた。
どれほど怒られるのか身構えていると、
「ルーカス!!Otimo(=最高)!!」
※わたしのあだ名は「ルーカス」だった。
と校長は言った。
「わたしはあなたより40年も長く生きているでしょう?だけど、まだ失敗はするのよ。大事なのはね〜、失敗をどう料理するかよ。あなたはそれを考えてきたじゃない!」
失敗はできるだけなくすこと。
それでも失敗してしまったら、謝罪をして調理方法を考えて出すこと。
「失敗は、何も自分だけがしてしまうものではない。世の終わりみたいな気持ちになりすぎなくても大丈夫。みんな失敗してないような顔に見えるけど、みんな失敗を通ってきたんだ。」
信じられないほど甘い、南国のパイナップルが香るあの校長室でそう教わった。
栄光のしごと
わたしの自宅は、学校に併設された"小屋"だった。
そんな小屋暮らしの夜には、一つの楽しみがあった。
それは学校の守衛さんである"ヴァウミー"との夜の語らいだった。
世界危険都市ランキングで23位(当時)にランクインされたほど治安が悪い都市マナウス。それを物語るように学校には24時間体制で守衛さんがいた。
その夜勤を担当していたのが"ヴァウミー"であった。彼は、53才でちょうど父と同じくらいの年齢だったが、気前が良く温厚で親しみやすい人であった。
彼とは脚が折れかけた緑のプラスチック椅子を並べたくさん話しをした。
「お互いの故郷のこと」「釣りのこと」「結婚のこと」。
まるで本当の父のように語らった。
ある日、一番聞きたかった質問を彼にしてみた。
「ヴァウミー、なんでこの仕事をしているの?」
「だってさ、この仕事、ボクは臆病でおっかなくてできないよ。」
日本では考えられない、いや想像もできない"身の危険"を肌で感じる仕事をなぜできているのかを知りたかった。
「わたしはね〜、ほんとうにしあわせな人間なんだよ。わたしには妻と息子がいるだろう?わたしには今、仕事が与えられているんだよ。宝物である家族との生活もできている。ほんとうにしあわせなんだ。言葉にならないほど神様に感謝している。」
期待していた答えとは、違って戸惑った。
しかし、今はわかる。
彼にとって「仕事」は、宝物である家族の生活を支えてくれる美しいものだった。
それがたとえ人が少しだじろぐほどの仕事でも。
記した以外にも、たくさんの目から鱗の経験をさせてもらった。
あの5ヶ月間で私の中の「仕事」や「働くこと」が確かに変わった。
「あだ名」「自由さ」「仕事観」日本では馴染みのない文化や思考などもあり、初め戸惑いがあったが、それ以上に多くの素敵な恩恵を受けた。
下記の記事にもあるが、日本も「昔の当たり前」から脱却しようとする企業の記事をよく見かける。
受け継ぐべきものを残しつつ、目新しい文化や風習を例え違う国のものであっても試してみる。そんな動きが少しずつ広がっているような気がする。日本の会社であだ名が飛び交う日が来るとは今はまだ想像できないが、、、。
ブラジル特有の賑やかなエールを背中に受け、日本に帰国した私は一年ぶりに就職活動を再開した。
「ブラジル・マナウスでボランティア講師をした」という物珍しい経歴を買ってもらってか分からないが、世の中で"大企業"と言われている会社に入社することができた。
あれから7年。
少々疲弊した職場の昼休み。
ノンカフェインのカフェオレを飲みながら当時のことを思い出す。
「もう少し力を抜いて、笑ったほうがいいかな」
約15,000キロ離れたあの蒸し暑いマナウス。
森の中に小さく建つ学校の職員室で、きょうも愉快なオーケストラの音がする。
まるで「仕事は怖くないんだよ」と歌うように。
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