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東中野「番外堀之内」

以前この括りで、区検通りについて書いた。

その際第六天神社の古い道標に「堀之内」への案内が彫られていることに言及した。
そこで今回、この括りの番外として、その「堀之内」について少々語りたい。

まず、堀之内とは中世武士や領主など、その地の有力者の舘を指す言葉なのだそうだ。そして、この舘は周囲を堀や土塁で囲まれていたためこれを「堀の内」と呼ぶのだ。そのため、土居もこれに同義とされる。
軈て時代が進み城下町が形成されるようになると、城主に仕える武士たちはその城下に居を移した為、堀の内や土居は廃れ姿を消すこととなるのだ。

また、今は無き新人物往来社刊の日本城郭体系に「和田堀の内」と紹介のあるそれは、この杉並の堀之内や和田堀周辺にあったとされるものであり、且又この地には鎌倉幕府要人「和田義盛」の居館があったことされる。
つまり、堀の内やその周辺、和田堀や和田と言う地名呼称は、この和田氏に由来することになる。
しかし、この地にその館跡は見付からず、確証を得るに足る文献もないため、同書でも伝承の域を出ないものとされる。実際、当地に赴いたところで、「和田堀の内」に関する案内や説明を見ることはない。
しかし、この和田義盛は八王子の横山党の娘を娶っているようなので、武蔵野の当地に、或いはその近郷に館を構えたとして何ら不思議はないだろう。実際、この和田義盛に因んだであろう地名や伝承が近郷に点在する。

和田堀公園に隣接して大宮八幡宮がある。この敷地の奥、善福寺川右岸崖上の一角に、「大宮遺跡」と言う旧石器から弥生時代に至る期間の複合的な遺跡がある。
当地からは当時都内初の方形周溝墓が3基連なって発見された。

方形周溝墓は、読んで字の通りなのだが、墓の主体部の周囲を溝が方形に配された有力者の埋葬施設で、弥生時代の墓の形式の一種とされる。また、弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて、これらは主に台地や丘陵の平坦部に、夫々が互いに隣接して造られた。そしてそのことはこの墓の特徴のひとつだと言う。
大宮遺跡に発見された方形周溝墓も、前述通りこれに合致する。

さて、さらに前出の堀之内を思い出していただきたい。
堀の内も方形周溝墓同様、主体部の館敷地の周囲に掘りという、言わば溝が配されたものであった。
とすれば、昔の人が崖上の方形周溝墓を見て、この地に伝わる和田義盛の伝承を結び付けて考えたであろうことが、容易に想像できるのではないか。

つまり、「堀の内」や「和田堀」の「堀」とはこの大宮遺跡に眠る3基の方形周溝墓を指したものではなかったのか?
日本城郭体系に紹介のある「和田堀の内」とは実はこの3基の方形周溝墓なのでないだろうか。

これはあくまでも、私の妄想であり、何の根拠もない戯言だ。
否定して呉れて構わないし、賛同してくれても特に何もない。面白がっていただければ幸いである。暇潰しにでもなれば光栄だ。

因みに、この3基の方形周溝墓は発掘調査を終えた後に埋め戻されているのでその姿を直接拝むことはできない。
また、埋葬品等の発掘品は大宮八幡宮や近接する博物館に収容されていると言う事である。

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