先に得る
ここ数週間体調を崩していた。
子供から風邪をもらったり、原因不明の不調があったりと複数回寝込んでしまった。
この期間、ある意味時間を自分のために使うという概念を持って休んでみた。
何かを得るために何かを犠牲にしないといけないという概念があるが、これは果たして本当にそうなのか?という個人的な疑問に対して答えを導き出すいいタイミングだったので試してみようと思ったのだ。
例えばこの期間、会社のトップである私が寝込んでしまえば仕事が出来なくなり、日々の仕事の組み立てや指示などが不安定となり会社が回らなくなる可能性が大きくなる。
これに対して、自分がいなくてもそんな状況を回避出来て仕事が回るという状態にしたいと思った場合に何を犠牲にすればそうなるかを考えてみた。
が、それが無いことに気づく。
そもそも瞬間的にそんな都合の良い回避策などあるはずもなく、犠牲にするとなると、自分の体と時間であり、体調が悪い中自らが動くしか方法はないのだ。
しかし、それだと本末転倒となり結局は休めなくなり、自分のための時間としてはこの期間を過ごすことが出来なくなる。
そこで見方を少し変えてみる。
何かを得ようと思った時、何かを犠牲にする前に、今何を得ているかにフォーカスしてみる。
すると、意外にも自分が休めるだけの条件が既に整っていることに気づいた。
ここがポイントだ。
犠牲にすべきことは、現在何を得ているかを把握し、理解することにより明確になる。
私の場合、少数精鋭での会社運営としていた為、各自の仕事が明確な状態として出来上がっていたこと、しかもスタッフはほとんどが業務歴が長くなってきていた為、個々に全体としての仕事の流れを把握できていたことなどがあった。
つまり、私がいなくても既に業務が滞ることなく進む条件は整っていたのだ。
これが先に得ていたものになる。
これを踏まえ、次に何を犠牲にするかを考えてみる。
…
この状況であえて犠牲にするものが思いつかない。
個人的には何もないという結論になる。
いや、むしろ先に得ていたものがあった分に合わせて私が安心して休めるという事を含めれば、何かを得るために犠牲にするものはなく、得たものが更に一つ増えたということになる。
何かを得るためには、という概念は確かにある。
それは私も幾度となく経験してきた。
あえてスペースを作らなければ新しいものは入ってこないという意味合いも理解はしている。
でも、足るを知るという言葉のように、新しいものを欲する前に、今それと同等のものを持っていないかを再確認する必要があると個人的には思う。
手放す前に何を切り離すかを明確にする方法を知らなければ本当に必要なものを無くしてしまうことだってあるかもしれない。
そう考えると、何かを得るためにはというところを何かを手放すためにはという思考に切り替えると、先に得てきたものの尊さが実感できるのではないだろうか。
とかく人間は何かを手放すことが苦手というか怖いのかもしれない。
例えるなら購入してからあまり着ない服も着れるからといって大事にしまっておいても新しい服を季節ごとに買い替えていれば、着れるだろうとしまってあるその服の存在さえ忘れてしまい、その価値は無になってしまう。
それが故に、それの価値を認め、機能性や嗜好性、希少性を見出した自らの才覚も同時に封印してしまい、時代の流れに同調していき、結果として本来自らが持つセンスやフィーリングが失われていく。
大事なものほど手放したくないはずが、目に見える物質的なものに執着してしまい、目に見えない精神的なものを疎かにしてしまう。
生まれてからこれまで培ってきた人生観により決断してきたことや出会ってきた人、経験してきたことなどにより蓄積され、今も気付けば手元にあるもののほとんどは先に得ているものということを今一度思い出してほしい。
それこそ、それらはとても尊いものであることに間違いなく、その中に犠牲にするべきものとして存在しているものなどないくらいだ。
だからこそ、何かを新しく得たいのであれば、既に先に得ているものに意識を向けることが重要であり、それを知った上で余分なものを手放すことにより、より良いループが生まれるのではないだろうか。
無意識だが確かに、『先に得る』という技術を我々は既に持っているのだから。
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