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重陽物語 #小説 #二次創作 #BTS

*この小説は、実在する人物とは一切関係がありません。

第一夜

約束の重陽の晩に月下に集まった七人の妖魔たち。
みな麗しい貴公子のように見えて人ではない。
菊花を愛でながら再会の盃を傾ける中、桜桃のような唇をもつ金碩珍は漢陽の都で耳にした不思議な噂を弟たちに話す。

                  1

唇に近づけた盃に菊の花びらが落ちたのを見て、ソクジンは「あっ」と小さな声をあげた。
 反り返った白い花びらが、水面の月を乱して揺れている。
「ヒョンはなかなか粋なことをしますね」
 弟のナムジュンが、兄の盃を覗き込んだ。
ナムジュンは、浅黒い指を伸ばして自分も菊の花をちぎると盃に浮かべた。
「菊酒の甘、弄月は楽し……」
 ナムジュンの口から、菊をうたった古い歌がこぼれる。

何でも兄たちの真似をしたがるグクが、さっそく自分も菊の花びらを浮かべて隣に座るホソクの肩を揺さぶった。
ホソクは既に首まで赤くなって、膝の上に頬づえをついて秋風に吹かれている。
「本当だ! 花を浮かべると甘いですよ。ねえねえ! ヒョンもやってみてくださいよ」
グクは気持ちよさそうに目を閉じるホソクの肩を遠慮なく揺らした。
ソクジンはそんな弟たちを眺めながら、花びらの浮かんだ盃をちょっと舐めてみた。
なるほど、菊の花を浮かべると酒がほんのりと甘くなったような気がする。

七人は夜露が袴を濡らすのを気にも留めず、秋の野に車座になって盃を傾けていた。
重陽の満月が、黄色い羽衣のような月明かりを七人の肩に落としている。

縹色(はなだいろ)の着物を着たジミンが、酒に目をぼうっと潤ませてソクジンの肩にもたれかかった。
「次はヒョンの番ですよ」

さっきから、七人は今宵の再会までのできごとを話し合っていた。
半年ほど前の春のはじめののびやかな晩に、七人は「重陽の月下でかならず会おう」と約束をして別れたのだった。

さっきまで兄弟たちは、テヒョンの仙界での冒険譚に耳を傾けていた。
兄弟たちと別れた後、テヒョンはひとり仙界に遊び、そこで黒い犬を拾って丹(タン)と名付けて連れ帰ったのである。もちろん、重陽の野で兄たちと懐かしい顔を合わせたテヒョンの腕には、丸い瞳を輝かせて尾を振る丹がおさまっていた。

「ねえ、早く」
ジミンは、ソクジンの広い肩に顔を埋めるようにして甘えた声を出した。
ソクジンの薄桃色の着物からは、慎ましやかな白檀の香がする。この兄は香にも佇まいにもさりげない品がある。このヒョンは妖魔になる前は何者だったんだろうと、ジミンは白い頤(おとがい)を上げてソクジンの顔を見上げた。
ふっくらと唇のふくらんだ形の良いソクジンの横顔が月明かりに縁どられて、ぼうっと輝いている。
「ヒョン、早く話してくださいよ」
美しい妖魔たちの中でもひときわ嬋娟たる美貌を誇る長兄からは、どんな妖艶な物語が語られるだろう。ジンヒョンのことだ。もしや、西域の国王を虜にして国を傾けでもしたかもしれない。ジミンは酒で桃色になった鼻息を吐いて、ごろごろと兄の首筋にもたれかかった。

 ソクジンは、もたれかかってくるジミンを追い払いもせずに盃を置くと話し始めた。
「お前たちと別れてから、ヒョンは漢陽にいたんだ」
「漢陽の都に? あんな人間の多いところで何をしていたんですか?」
それまで黙って酒を舐めていたユンギが口を挟む。菊酒などに興味がない顔をして月を見上げていたユンギの盃にも、菊花が一枚、さりげなく浮かんでいる。
「うん」
ソクジンはそれには答えずに話を続けた。
「ある日、僕が貴族の屋敷に忍び込んで涼しい所で昼寝をしていると、女官たちが噂話をしているのが聞こえてきた。ある女官が、女主人の供をして夜中に崇礼門の前を通った。すると、崇礼門の二階から琴の音が聞こえてきたそうだ。夜更けの誰もいないはずの門の二階で、ぽろんぽろんと誰かが寂しい音色の琴を弾いているんだ。お供の侍(さむらい)たちが、松明(たいまつ)を持って二階に登ってみたが、琴の音が聞こえるだけで誰もいなかったそうだ」
「やめましょうよ。もっと明るい話をしましょうよ」
妖魔のくせに怪談話が苦手なホソクが、酔いも醒めたという顔で両腕をさする。
ソクジンは桜桃の唇に微笑を浮かべて、厳かな声色で続けた。
「女主人はその音を聴いて以来、悪夢に憑かれて寝ついてしまった。その後も夜更けの崇礼門で琴の音を聴く者が相次いだ。崇礼門に妖魔が棲みついている。女官たちはそう噂し合っていた」
「なんだ。妖魔か」
テヒョンががっかりした声を上げた。
「僕たちだって妖魔じゃないですか。妖魔なんて珍しくもない」
胸ときめくような恋物語を期待していたジミンは、ソクジンの肩に顔を埋めて唇を尖らせた。
肩透かしを食らった弟たちのがっかりした声を聞いて、ソクジンはヒャッヒャと愉快そうに声を上げた。

「それで、ヒョンは崇礼門に行ってみたんですか?」
ナムジュンだけは、まだ話の続きがあるかのように期待を込めた目で長兄を見つめながら言う。
「行かないよ。ジミンの言う通り妖魔なんて珍しくもない」
ソクジンが桜桃の唇に盃を当ててつならなそうに呟くと、グクがその背中に飛び掛かった。
「じゃあ、俺らで妖魔を見に行ってみましょうよ!」
「おもしろそうだな」
ユンギが盃を当てた唇をニヤリとさせる。
「人心を惑わす妖魔退治だ!」
ジミンも酔って兄の首筋に顔を埋めながら、はしゃいだ声をあげた。

妖魔たちは、袴に付いた草露を払って立ち上がると、漢陽の都に向けて歩き出した。
「やめましょうよ」と赤ら顔を泣きそうに歪める怖がりのホソクの手を引いて、妖魔たちは酒に華やいだ笑い声を秋の野に響かせながら進む。
満月は高く澄んでいて、夜露を侘ぶ虫の音はもの悲しい。

突然、テヒョンが足を止めた。
「丹は? 丹がいない!」
七人の周りをちょろちょろと駆け回っていた丹が、いつの間にか姿を消していたのだ。
テヒョンは兄弟たちに断りもなく駆け出した。
「丹! 丹!」
「テヒョン! どこ行くの! 待ってよ!」
弟たちが追いかけようとするのを引き止めて、ソクジンが言った。
「ヒョンが追いかけるよ。お前たちは、先に妖魔を見に行ってな」
薄桃色の着物を着たソクジンの長身が、黒い影となって遠ざかって行く。
残された弟たちは、半ば酔いの引いた顔を見合わせた。
「ジンヒョンとテヒョンがいないんだ。妖魔退治はまたにしましょうか」
ナムジュンが言った。
「そうだよ。妖魔退治なんかやめて、みんなで丹を探そうよ」
ホソクもホッと息を吐いて賛成する。
ところが、すっかり出来上がったジミンが管を巻いた。
「ダメですよ! 人心を惑わす妖魔が出たんですよ! 僕らがやっつけないと!」
「そうです! そうです!」
グクも拳を構えて、妖魔を殴り倒す仕草をする。
末っ子たちに押し切られるようにして、五人は再び野を渡り始めた。

              2

 崇礼門は漢陽の南に位置する大門である。
 ナムジュン、ユンギ、ホソク、ジミン、グクの五人の妖魔は、静まり返った月明かりの大路を肩を組んで歩く。酔いも手伝って、五人は妖魔退治に行くというのに陽気な流行歌を怒鳴っていた。

僕が鏡を見ると
君の心がふたつに溶けるんだ
だって僕は超星のように輝いているから

「ヤー!」
長兄の口真似をしてナムジュンが叫んだ。
「崇礼門だぞ!」
ナムジュンが指さす先には、巨大な門があった。石門の上に、二階建ての瓦屋根の楼閣が乗っかっている。漢陽一の大門は、空高くかかる月を覆い隠すほど巨大で、隆として聳えていた。
五人はあんぐりと口を開けて黒々と立ちはだかる門を見上げた。
妖魔が棲みつくという二階は真っ暗で、松虫の心細い声のほかは闇に溶けてしまいそうな静けさである。
「琴の音なんて聞こえませんね」
 グクがつまらなそうに口を尖らせる横で、ジミンが千鳥足で一歩前に進んだ。
「おーい! 妖魔! 琴が上手いそうじゃないか! 聞かせてみろよ! 強そうな妖魔がやってきたからビビッてんのか!」 
「なーんだ」
「ジンヒョンに担がれたな」
五人は真っ黒い門に向かって口々に声を上げた。
ボロン。頭上からゾッとするような弦の音が落ちてきた。
五人は酔っぱらった顔を青ざめさせて肩を寄せた。
しばらくして、さらに低い音がまた一つ、落とされた。
またしばらくして、もう一つ。
途切れがちな音は連なって、胸を突くような哀しみに満ちた曲となった。
「悪くはねえな」
ユンギが目を細めた。
「うん、悪くないねえ」
ホソクも恐ろしい妖魔が弾いていることなど忘れて、微笑を浮かべて指先でリズムを取っている。
「でも、もうちょっと明るい方がよくない?」
ホソクはしなやかな指先を空に向かって掲げた。指を鳴らしてリズムを取り、大きく腰をくねらせて踊り始める。
「パン、パン、パパン! パン! パパン!」
ホソクが踊り始めると、ホソクの動きに釣られて琴の音が軽やかで楽しげな音色に変わっていった。
ズンチャ、ズンチャとナムジュンが前に出て来て、リズムに乗せた詩を口ずさむ。
兄たちに負けたくないグクが、さらに前に出て歌い出す。と、ジミンが青い袖を蝶のように広げてくるりと回転した。

笛の音についておいで 僕の歌についておいでよ
ちょっと危ないけど 僕ってすごく甘いでしょ

五人の妖魔たちは、琴の音に合わせて腰をくねらせ、飛び跳ねて歌をうたった。ホソクを真ん中にして、顔を紅潮させ、汗をきらきらと輝かせて息を弾ませて踊る。琴の音も妖魔たちの動きに合わせて激しくうねった。

その時、大門の上から真っ黒い塊が落ちてきた。
「わぁぁぁ!」
五人は悲鳴を上げて身を寄せ合った。
恐る恐る顔を上げる五人の前には、大きな獅子舞の頭が落ちていた。
赤い顔の真ん中で、爛々とした金色の目玉がぐるりと回る。
 しくしく……しくしく……
獅子はぐわっと開いた赤い口から、か細い女の声を出して泣き始めた。
「ど、どうしたの?」
ジミンがユンギの胸元にしがみ付きながら声をかけた。
「しくしく……ああ、慕わしい……?」
その声が、胸がかきむしられるほどに悲しそうだったので、五人は抱き合っていた腕をほどいて朱色の獅子に近づいた。
「お前が琴を弾いていたのか?」
ユンギがもう一度、話しかける。
獅子の頭の下から、煙のように細い女の声が言った。
「チェ・ソン殿……ああ、一目……お会いしたい……」
「チェ・ソン?」
首を傾げたナムジュンに、皆が視線を向けた。
「ヒョン、知ってるんですか?」
「捕盗庁の大将殿だ」
 捕盗庁の大将とは、警察庁長官のような役職である。
ナムジュンが以前、漢江のほとりで詩を口ずさんでいたところ、通りすがりの士大夫がその詩に聞惚れて、自宅で催される観月の宴にナムジュンを招いたのだった。その宴に正客として招かれていたのが、捕盗庁大将チェ・ソンであった。
「たしか、チェ・ソン殿は都の北に住んでいたと思う」
ジミンが恐る恐る近づいて、潮に洗われた網のようなごわごわとした獅子の髪を撫でた。
「チェ・ソンって人に会いたいんだね? 都の北に住んでるんだって。僕たちが連れて行ってあげるからね。泣かないで」
「ああ……うれしや……チェ・ソン殿……」                ジミンの柔らかな手に撫でられて、獅子は一層、悲痛な声を震わせた。

僕が鏡を覗くと
君の心が二つに溶けるんだ

五人は巨大な獅子の頭を神輿のように担いで、月明かりに洗われた大路をチェ・ソンの屋敷に向かって歩いた。酒に華やいだ妖魔たちの歌声は、人の耳には聞こえないらしく、大路の隅に寝ている乞食たちは誰一人、双眸を開かない。だが、五人の妖魔が通り過ぎるのを見た犬は激しく吠えたて、民家の中では歌声を聴いた子どもらが泣き声を上げた。

ぼくらは超星だから
きみを月に連れて行ってあげる

獅子を担いで声を張りあげて歌う五人の足が止まった。
「ヤー、着いたぞ」
ふらつきながら先頭を歩いていたユンギが前方を指差した。
ユンギの白い指の先には、崇礼門よりも立派な門を構えた巨大な屋敷が建っていた。屋敷はまっ黒な山のようで、月明かりに屋根を濡らして鎮まり返っている。
「チェ・ソン殿の屋敷だ」
ナムジュンがうんと首を逸らして屋敷を見上げた。
「ほら。会いたかった人の家だって。よかったね」
ジミンがやさしく獅子の毛を撫でると、獅子は哀し気な女の声で言った。
「チェ・ソン殿……うれしや……うれしや……」
獅子の頭はそう言うと、大きく震えてぽーんと飛び上がった。

ぽーん。ぽーん。

瞠目している五人の前で、獅子の頭は毬のように弾んで屋敷の門を飛び越え、屋敷の奥に消えて行った。
「行っちゃったね」
グクがあんぐりと口を開いたまま言った。
「チェ・ソンって人に無事に会えるといいけど」
ジミンがまだ心配そうな眼差しを門の向こうに注いでいる。
「会えるさ」
と、ナムジュンがジミンの肩を抱いた。
「人助けをするといい気分だ」
ホソクが満足げな微笑を浮かべて歩き出すと、ユンギがその肩を軽く叩いて言った。
「ジンヒョンたちの所に戻って飲み直すか」
五人がチェ・ソン屋敷に背を向けてぶらぶらと大路を戻り始めた時、背後で何かが割れるような音がして地面が大きくうねった。
「何? 何?」
縮みあがって身を寄せ合う五人の目の前で、太い稲光が一つ、チェ・ソン屋敷の上に落っこちた。黒い山のような屋敷は真っ二つに割れて、火の手が上がっている。屋敷の門からは色とりどりの着物を人々が飛び出して来て、泣いたり叫んだりして逃げ惑っていた。
「噓でしょ……」
「会いたいって……そういうことだったの……?」
五人は抱き合って黒い屋敷を覆う炎をいつまでも見つめていた。


             3


「獅子の妖魔はチェ・ソン殿を恋い慕って会いたがってたんじゃないんだ。チェ・ソン殿に復讐するために会いたがってたんだ」
草の上に座ってジミンが息を弾ませながら喋っている。ユンギ、ナムジュン、ホソク、グクも興奮した顔でソクジンとテヒョンに落雷のことを伝えようと口を挟んだ。

ジミンの話を遮ってテヒョンが尋ねた。
「雷が落ちたんだろう? 屋敷の人たちは大丈夫だったの?」
「お役人が来てすぐに火を消してたよ」
「それなら、よかった」
テヒョンは膝の上で寝息を立てている丹を撫でた。
丹は草原の奥で菊の香に酔って倒れていたところをテヒョンとソクジンに見つけ出されたのであった。ソクジンが桔梗の花を煎じて作った丸薬を飲まされた丹は、テヒョンの膝の上で眠ってしまったのだった。
「お前たちも妖魔退治で喉が渇いただろう。飲みなおそう」
ソクジンが青磁の徳利を掲げると、「ヒョン、僕が注ぎますよ」とホソクが透かさず徳利を取り上げた。
「アー、喉がカラカラだ」
「雷のせいで酔いが覚めちゃったよ」
妖魔たちはどんどんと盃を干して行く。
重陽の野を渡る風が菊花を揺らし、菊花の濃厚な香が野に満ちた。
テヒョンが澄んだ瞳で兄たちを見つめて訊いた。
「ねえ、妖魔の琴の音ってどんな音だったんです?」
「聞きてえか?」
ユンギが口を拭って身を乗り出すと、脇に置いた筝を手に取った。
「わあ! ユンギヒョンの筝だ!」
菊の香と酒精に頬を染めた弟たちは、ユンギの琴の周りに集まった。
ユンギはもう一杯盃を呷ると、力強くぼろん……ぼろん……と弦を弾いた。

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ヒョンたちの背中の後ろで筝の音に耳を傾けていたグクは、ソクジンの姿が無いことに気づいた。酒に霞んだ目を擦ってみたが、やはり筝の音に聴き入っているヒョンたちの中にソクジンの姿は無い。慌てて振り返ると、遠く野の向こうにソクジンの薄桃色の着物が揺れているのが見えた。
「ジンヒョン!」
グクは輪を抜けると、草の露を踏んで走り出した。
「ジンヒョン! どこ行くんですか?」
グクの俊足が追いつくと、ソクジンは振り返っておどけた調子で微笑した。
「酔い覚ましだよ」
その微笑の硬さにグクは思わず「嘘だ!」と叫んだ。ジンヒョンにはある日、ふっと消えていなくなってしまいそうな危うい雰囲気があった。今も、重陽の再会を喜びながら、何も言わずに弟たちの前から消えてしまうんじゃないか。
「ヒョンも酔いが醒めたら戻るから。お前もみんなとユンギの筝を聞いてろよ」
「いやだ」
グクは大股にソクジンと並んで歩き出した。
ソクジンは困ったように眉を下げたが、何も言わずに歩いた。
彼は手にしていた仮面を顔に当てた。
それは『蘭陵王(らんりょうおう)』という唐の武将の仮面で、蘭陵王はその美貌のために兵士の士気が落ちるのを恐れて、戦場では常に仮面をかぶっていたという逸話のある武将であった。ソクジンは戦に出るわけではなかったが、彼が破顔一笑するのを見た人間は、誰もが三日三晩、恋を患い悶死するのだった。若い乙女だけでなく、富と権力を持つ海千山千の男たちもソクジンの微笑に狂ってあたら命を落とした。そのため、ソクジンは、人間のいる場所に出る時は、図らず微笑をこぼして人の命を奪わぬよう仮面を付けることにしているのだった。
「やっぱり、一人で都に行こうとしていたんだ」
すねた声を出すグクに、ソクジンは尋ねた。
「妖魔が雷を落としたのは、たしかにチェ・ソン殿の屋敷だったの?」
「そうですよ」
憮然としてグクは言う。
ソクジンは仮面を当てた顔をまっすぐ前に向けて大股に足を速めた。
「ついて来てもいいけど、今から見聞きすることを、誰にも言ってはいけないよ」
「はい!」
グクは頷いて、同行を許されたことに胸を弾ませながらぴょんぴょんと付いて行った。
 
チェ・ソン屋敷の前では、雷から逃れた人々が蹲って手当を受けていた。
それを恐ろしそうに眺めながら歩くグクの前を、仮面を付けたソクジンが落ち着いた足取りで屋敷の中に入って行く。
 
門内の建物はどれも落雷で真っ黒に焦げていた。まだ煙の燻ぶる邸内をソクジンは迷いなく一番奥の母屋に入って行った。

天井が焼け崩れて夜空がぽっかり見える広間の真ん中に、椅子に座った黒焦げの肉塊があった。辛うじて焼け残った藤色の袴の裾の上質さを見ると、これがこの屋敷の主人のチェ・ソンのようだった。落雷が直撃したのだろう。稲妻の駆け抜けた肉体は四肢をピンと硬直させ、白目をむいていた。
「こんなことをするってわかってたら、案内なんかしなかったのに」
グクは申し訳なさそうに爪を噛んだ。
ソクジンは黙って焦げた肉塊に近づくと、形の良い手でその肩に触れた。すると、チェ・ソンは太い指先をぴくりと動かして息を吹き返した。
 チェ・ソンの前には男がひとり倒れていた。落雷を避けられたのだろう。男の体は綺麗だったが、剣を振りかざした格好のまま青白く硬直していた。主人であるチェ・ソンを守ろうとして妖魔に息の根を止められた男は、恐怖のあまり血管の浮いた眼(まなこ)を見開いてこと切れていた。
「この人も助けなきゃ」
グクが近づこうとした時、ソクジンが静かに言った。
「その人はサンヨプヒョンだよ」
振り返ったグクの前で、ソクジンは蘭陵王の仮面を外してサンヨプの前に立った。
「僕が人間だった頃、大切に思っていた人だ」
「ジンヒョンが?」
グクは、恐怖に引き攣っているがどこか優し気で整った男の顔を凝視した。
「そんなんじゃないよ。この人はぼくのことを弟以上には思っていなかった」
ソクジンは耳まで赤く染めながら何かを抑えた口調で続けた。
「この人は、兄の友人で、ぼくを本当の弟のように可愛がってくれたんだ。勤勉で天子様の信頼も厚くて、やさしくてかっこよくて……ぼくはサンヨプヒョンのようになりたかった……それ以上の気持ちを持っていた。だけど、ヒョンはそうじゃなかった。妻帯して、妻を連れてぼくの家に遊びに来るようになった」
ソクジンは、桜桃の唇を噛みしめてサンヨプの上に屈みこんだ。
「ある時、中年の官人が僕を気に入って自分の愛人だと言いふらしたんだ。ヒョンはそれを耳にして激怒した。男と、しかも、妻帯の男とそんな関係になるなんて汚らわしい。そんな事実はなかったのに、ヒョンは僕を見て顔をしかめた。僕はいたたまれずに家を出たんだ」
「それから?」
「気づいたら妖魔になってた」
 ソクジンはそう言って明朗に笑った。その明朗さの裏に言葉にできない哀しみがあるのを悟ってグクは俯いた。「気づいたら妖魔になっていた」そう言って誤魔化すしか方法の無い、拭い去れない哀しみをジンヒョンは抱えている。
 ソクジンは腕を伸ばすと、硬くなったサンヨプの体を抱き起した。担いで焼け落ちた屋敷を出て、柳の木の下の井戸の前に男を横たえた。
 釣瓶を落として水を汲み瞼を洗うと、サンヨプは薄らと目を開いて双眸を揺らした。そして、目の前にソクジンの姿を見つけると、飛び起きて両手でその肩を掴んだ。
「ジナ! ジナじゃないか! どこに行ってたんだ? お父さんも兄さんも捜していたぞ!」
 サンヨプは、表情のないソクジンの顔を見つめて肩を揺らした。
「ジナ、どこで何をしているんだ? 元気そうな顔をみせてくれ。元気だと笑っておくれ」
 サンヨプがやさしく笑いかける。
 ソクジンは締め付けられる胸の痛みに唇を噛んだ。ここで破顔一笑すれば、サンヨプも他の男たちのようにソクジンに恋焦がれて悶死するだろう。あれだけの凄まじい思いを受け止めてくれなかった男が、狂って狂ってジナの名を叫びながら死んで行くのだ。
 ソクジンは桜桃のような口の端に力を入れようとして躊躇い、やがて冷淡な美貌をすっと横に向けた。立ち上がり、サンヨプを置いて足音もなく井の側を離れた。
「ジナ……どこに行くんだ? 家に戻ろう」
 後ろから追いかけてくる懐かしい声を振り払うように、ソクジンは足を速めた。

 チェ・ソン屋敷の外は、野次馬も去り、けが人たちもどこかの屋敷に運ばれて、静寂であった。
 ソクジンは仮面を付けて、清涼な満月を見上げた。何の憂いも無く、あの満月のように欠けたところのない気持ちでいられたらと思う。
「ジンヒョン」
 追いかけてきたグクが声をかけた。
「ヤー、帰るぞ。さっきの話をあいつらに喋ったら許さないからな」
 おどけた声を出して歩き始めるソクジンの袖を掴んで、グクが遠慮がちに言った。
「ジンヒョンには、僕がいます。僕じゃ頼りないかもしれないけど、ユンギヒョンもナムジュニヒョンもみんなジンヒョンが好きです。あの人がヒョンを好きだといわなくても僕たちは……」
「うん」
「僕たちは、ヒョンが笑うのを見ても死にません」
「そうだな」
 仮面の下でソクジンの唇が綻んだ気がした。
 見ると、ソクジンの体は月明かりに溶けて透き通っていた。グクの体も同様に黄色い光で透き通っている。頼りない自分たちの体を繋ぎ止めるかのようにグクは透き通ったソクジンの肩にしがみついた。
「僕がいます、ヒョン」
 グクは自分に言い聞かせるかのように囁いた。
 松虫の声が心細く月夜に響いた。
 二人の妖魔の姿は、漢陽の大路の月明かりの中に溶け込むように消えて行った。

                         (第一夜 おわり)

イラスト:夢鴉(むあ)様 @muamua3100

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