見出し画像

一統合失調症者の自分史 反省と後悔①

三宅康雄

序文
 私は中学2年生の時、統合失調症を発症して以来、66歳の今日まで悲惨で滅茶苦茶な人生を生きて来ました。統合失調症だから惨憺たる人生になったと言って、精神医学的には決して間違いではないと思います。ですけど、それだと宿命論になってしまいます。現在から過去を振り返って、あの時、ああしていれば、あの時、あんな事をしなければ、こんな悲惨で非人間的な人生にならなかった。もっと幸せで人間的な人生を生きる事ができたという反省と後悔が色々あるのです。自分史を書きながら、その反省と後悔を書きたいです。読んで頂ければ有難いです。

本文
 私は0歳から6歳で幼稚園を卒園するまで普通に幸せな人生を送っていました。4歳の時、赤羽のアパートから三鷹の一戸建てに引っ越しました。赤羽時代の記憶は色々あるのですが、例えば、とろろ昆布を巻いたおにぎりを
持って若かった母と荒川の土手に出かけた事を覚えています。三鷹に引っ越すと同時にマリアの園幼稚園というミッション系の幼稚園に入りました。カトリック情緒豊かな幼稚園で楽しく日々を過ごしました。

 ところが幼稚園を卒園して小学校に入学するまでの春休みに、原因はよく分からないのですが、脳波が乱れてしまうという大事件が起こってしまいました。両親はもうパニック状態になって、私を病院に連れて行きました。以来年に1回母に連れられて、脳波の検査をしてもらいに病院に行きました。
これは後になって知った事ですが、本人に脳波の異常を自覚させたら可哀そうだ、という親の配慮で脳波の異常を治す薬を味噌汁に混ぜて飲ませていたそうです。小学校5年の時、医師からもう検査に来なくていいと言われました。

 たぶん脳波の異常が理由だったと思うのですが、小学校の6年間は虐めの集中砲火にあいました。例えば、私は胃腸が弱かったのでお母さんが腹巻きを作ってくれたのですが、腹巻きに集中的に蹴りを入れられました。勉強も嫌いで通信簿は5段階評価で2とか3ばっかりでした。特に悲惨だったのが体育で常に1でした。ところが小学校5年の終わり頃、親が「物語日本の歴史全十巻」を買い与えてくれ、それなりに興味を持って読みました。そうしたら小6の1学期の社会が日本史で、学科で初めて5を取りました。(図工
は常に5でした。)

 小6の10月ごろだった思うのですが父から突然、国立市にある桐朋を受験するように言われました。私は驚いたし、父は親馬鹿ではないかと思いました。桐朋は学科が全て5の毛並みの良い秀才が受験する学校だからです。桐朋は算数と国語の2教科なのですが、2月1日の受験日まで日にちがあまりなかったので、算数1教科に絞って勉強することにしました。応用自在という問題集を買ってきて、学校から帰った後取り組みました。算数の力は段々ついていきました。そして幸か不幸か桐朋に合格してしまいました。200人中155番でした。

    桐朋受験の過程で勉強が面白くなりました。1学期は平均点程度でした。(歴史だけは10段階評価で10でしたが。)夏休みはなかなか充実していました。学校の行事で尾瀬ケ原に行きました。ただ木道をテクテク歩いて行くだ
けなのですが、とても深い印象を受けました。夏休みの自由研究で縄文土器
の事を調べました。参考のため父が学芸員をしている上野の東京国立博物館にも見学にいきました。

 2学期が始まった日、席替えがあり私の隣に桐朋小学校からエスカレーター式に上がって来たFという学年1うるさい人間が座ることになりました。2学期からは勉強に力を入れるつもりでしたので一瞬暗い気持ちなりました。
しかしこの頃は未だ発病していなかったので、気になって苦しむことはありませんでした。そして2学期は驚くほど良い成績をとりました。私が桐朋に入ったのは1969年で日本の高度経済成長の最後の日々で、私の成績もどんどん成長していく日本経済もどんどん成長していくというめでたい気持ちでした。

 しかし私は中学2年の1学期の中間試験で瞬間風速的に1000点満点中950点、学年で2番という大変良い点を取ったのですがこの前後から私の精神は
暗く崩れ始めました。新聞や週刊誌を通してプロレタリア文化大革命の風と空気にもろにあたってしまったのです。曰く「秀才は悪である。」「秀才は人民の敵である。」私は勉強が面白いし、好きで将来できれば学者になりたいと思って一生懸命勉強しているだけなのに、なんでこんなふうに悪く言われなければならないのかと思って気が変になっていきました。文革の被害者は沢山いるわけですが、私もその一人なのです。学校の成績はガタ落ちになりました。もちろん毛沢東や4人組は悪いし、また私の遺伝子の異常や脳の生物学的異常もあったと思います。しかし何故自分の悩みを親や教師や心理カウンセラーに説明・相談せず、一人で抱え込み内閉・自閉してしまったのかと思うのです。私のコミュニケーション能力の貧困・欠如(若しくは異常)は問題だったと思うのです。

   東京都の世田谷区の豪徳寺という所に母の実家があり、お祖父さんお祖母さんと母の実弟の寿一郎叔父とお嫁さんの美穂子叔母といとこが住んでいました。中3の秋、三鷹の家の大改築があり、一時的に私の居る場所がなくなったので、豪徳寺に身をよせました。多分この時の事だったと思うのですが、本宅からお祖父さんのコンクリートの書庫への通路に造り付けられている背の低い書棚にハウツーセックスについて美しく書かれた書物を発見しました。(確か翻訳書で、たぶん寿一郎叔父が購入したのだと思います。)私は胸をときめかせて1ページ目だけ読み、これは素晴らしい本だけど自分にはまだ早いから将来じっくり読ませてもらおうと思って書棚に返しました。同じ頃、美穂子叔母が岡潔という偉い数学者の書いた「春宵十話」というエッセー集を貸して呉れました。この本を読んで私は数学の勉強意欲を大いに刺激されました。

 三鷹の家の大改築が済んだあたりから、私の精神の病はステージが一段上がりました。公立小学校や公立中学校は校内履きと校外履きの区別があるわけですが、桐朋はその区別がありません。そして校庭は大学のキャンパスと違って煉瓦敷きでもなくコンクリート敷きでもなく土です。ですから教室の中は土ぼこりで一杯です。晩秋もしくは初冬の高度の低い太陽から水平的に
教室の奥まで入射してくる太陽光線に教室内に充満浮遊する土ぼこりがはっきりと見えるのです。(チンダル現象と言うのだそうですが。)私はこんな空気を吸うのは絶対嫌で、油汗がでかねない程苦悶しました。桐朋高校に進学したら不幸になる、そんな予感(この予感は的中するのですが)のした私は母に都立高校(国立・立川の群)に変わりたいと訴えました。そうしたら
母から「皆が桐朋高校に行くんだから、あなたも桐朋高校に行くんです。」とぴしゃりと仕切られてしまいました。

 やはりここでもコミュニケーション能力が貧困で、ただ都立高校に変わりたいと訴えるだけでは言い方が単純過ぎて母も理解できなかったと思うのです。プロレタリア文化大革命や教室のほこりで精神的におかしくなって苦しんでいる事、桐朋は名門校かもしれないけど、桐朋小学校から質の悪い生徒が無試験でエスカレーター式に1学年あたり70人も入り込んでいて不吉な予感がする事、男子校より共学のほうが自分には向いている気がする事、こういった事を全部話せば親も理解してくれたかもしれないと思うのです。

 桐朋高校の入試は55番でした。学者になりたいという夢からすれば、足りない成績なのですが、精神の酷い病を考えれば、良く頑張りましたと言ったところでした。高校1年は真の生き地獄でした。私のすぐ後ろの席の生徒(そのうち少なくとも一人は桐朋小学校出身者)の私語がすごかったのです。これは大学に入ってから知ったのですが、国立・立川はユニークな高校で、大学とある種同じように毎朝、早く登校した者から自由に自分の好きな席に座る事ができるようになっているのです。この頃美穂子叔母が数Ⅰの問題を何題か書いたペーパーを出題してくれました。最初は基本的な問題だったので全問正解でした。良くできました、との評をもらった。次いで発展問題というか難しい問題が出題されました。私が高1の時は1972年だから既にコピー機はあったと思うのですが、全てとても綺麗な手書きで書かれていました。しかし基本的な問題の方はともかく、難しい問題の方は桐朋高校で毎日鉄板で焼かれるような苦しみを味わっていた私には取り組む気力がありませんでした。一年に一回クラス担任の先生と個人面談がありました。この時私は後ろの席の人から虐められている事を思い切って話しました。そうしたら先生は「席替えをしようか」と救いの手を差し伸べてくれました。それなのに私は思わず尻込みして「いえそれ程の事は無いんです。」と言って、折角差し伸べられた救いの手にすがらなかったのです。何が「いえそれ程の事は無いんです。」だ!実際には毎日気が狂いそうな程の苦しみだったのです。私のコミュニケーション能力の無さは異常です。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。②に続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?