ラット -番- ①

 

午前5時54分にセットしていたアラームを止めると、トレーニング用のウェアを羽織る。20分かけて全身のストレッチを入念に行い、そこから20分間有酸素を取り入れたトレーニング。軽い朝食とコーヒーを嗜み、洗面台へと向かう。蛇口をひねり冷たい水を煽ることで、ようやく眠気を吹き飛ばしてくれる。

 そこで初めて朝一番の顔を拝む。目の奥が濁った人殺しの目だった。今まで街に巣くっている悪を排してきた。汚れた手だ。耐え難い汚濁を無理やりねじ込まれるような不快感。汚物を胃の中に住まわせている違和感。

 思わず自嘲的に笑みがこぼれてしまう。何も恐れることはない、自らの信念に従うのみだ。汚れは綺麗に落とさなければ。

 髪を整え、歯を磨き、シャツとスーツに着替える。全ての身支度を終わらせた頃には出勤する時間だった。落ち着いた様子で玄関へ向かい、馴染んできた革靴へ足を通す。

 姿見ですべての装いが完璧であることを確認すると、靴箱の上に置かれている伏せられた写真立てへ目を向ける。それを厳かに立て直すと、現れたのは女性の写真だった。高校生と思しき制服、快活で朗らかな笑顔を向けた少女の写真だった。手には卒業証書が握られ、早咲きの桜が祝福しているように見える。

 少女の笑顔の輪郭をなぞる。止まった彼女の顔からは、温かな記憶と冷たい雨を思い起こさせる。いつからだろうか、この笑顔が自分にとっての呪いなのだと思うようになったのは。

 だが一言。
「行ってきます」

 立てかけていた少女をまた伏せる。記憶に蓋をして、愛車のキーを手に取り家を出た。

Δ


「あ?なんだって?」


 先輩刑事である遠坂は熊と一部では評されるほどの大柄な体を回転イスに預けながら、後輩である京崎の顔をあからさまに不機嫌な顔で見上げる。谷折りできそうなほど眉間を吊り上げなくても、というツッコミを喉に奥底に抑え込む。

 淹れたてのコーヒーの香りが部屋に充満する。京崎はブラック、遠坂はコーヒーと牛乳、そして砂糖を3個投入した激甘飲料物だった。毎度作りながら「これはコーヒーとは言わないのでは?」と京崎は自問する。

「ですから、射撃のコツを教えて欲しいんですよ。遠坂さん」


 射撃。


 凶悪犯を逮捕する時や犯人が抵抗する際、周囲と警官自身が危険であり、他に手段がなく、やむを得ない場合に拳銃が使われる。警棒や機動隊の重装備とは違い、一発で相手を行動不能にさせることができる可能性が高いものである。


 その分訓練場や警察学校に赴き訓練を行うが、一般的な警官が年間に射撃訓練で発射する実弾の数は40〜50発程度。そして訓練したからと言って、その分上手くなるわけではない。
 京崎は続ける。


「昨日、警察学校で射撃訓練をしたんですが、なかなかうまく行かなくて…。遠坂さんって射撃の大会で優勝したんでしょう?上手い人から教わった方がいいと思いまして」


「ダルい、めんどい、パス」


 わずか三単語で一蹴されてしまった。用は終わったといわんばかりに相も変わらず仕事とは関係ないスマホゲームをやりこんでいる。


 聞いた話によれば、京崎が警察学校に入校するよりも以前に射撃の大会で3連覇しているらしい。本人が自慢げに言いふらさないから、出会った当初はただのサボり魔だと思っていた。


 ゲームをする遠坂をじっと睨んでいると、鬱陶しそうな顔で続けた。


「大体よぉ、なんで俺なんだ。大会はまぐれだし、実写とはまた違うからな。…教わるなら氷野からにしろよ」

「その氷野さんから、遠坂さんに教われって言われたんですよ」

「は?なんで」

「『私に射撃のコツを教えたのは遠坂さんだから』って」

 あのクソガキ、と悪態をつきながら見事なエイムで敵を翻弄する。しかし混戦となり部隊壊滅の文字が表示されると、うんざりとした様子で口を開いた。


「構える、見る、撃つ。そんだけ」


 なんてシンプルなアドバイス。教本の10分の1にも満たない内容に期待した自分がバカだった。


「あーはいそうですか!ありがとうございます!おかげで参考になりました!」

 左手に持っていたコーヒー、もとい激甘飲料物をドンとデスクに叩きつける。衝撃で少し溢れた水滴が、近くにある資料をわずかに濡らす。


 抗議する声を無視していると、バツが悪そうに「タバコ吸ってくる」と言い残して先輩刑事は部屋を出た。


 もうすぐ朝礼が始まるのに。全く栄部長はなんであの人を放っておくんだろう。
 京崎は取り残された部屋でコーヒーを飲んだ。いつにも増して苦い味がした。

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