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随筆『恋と戦争と自衛と愛と』

攻撃されていないのに
どのように防御するかだけを
考えていても意味がないと
わたしは考えている。

相手がいないのに
結婚について
考えても意味がないと
わたしは考えてしまう。

相手がいないのに
恋愛について
考えても意味がないのと
たぶん同じなのだろうと
わたしは考えてしまう。

だから
「自分に合う相手」として
語られている多くのことが
実は
「自分の都合に合う人」について
語られているに過ぎないのだろうと
わたしは想像する。

ただ
相手のことを
「いい人」(つまり他人)として観ているときは
おそらく客観的で
冷静でいられているのだろうと
わたしは想像する。

反対に
相手のことを
「いい男または女」(つまり異性)として観ているときは
おそらく主観的で
冷静さを失っているのではないかと
わたしは感じてしまう。

また
相手がいないのに
「幸せな家庭」について
考える必要もないはずだ。
「いま」がないのに
将来のことを
考える意味はないのだから。

同様に
「いま」がないのであれば
将来のことを
考える必要もないはずだ。

そして
希望がないなら
絶望について
考える意味だってないはずなのだ。
希望がないのに
絶望について
考える必要はないのだから。

たとえばそれは
平和でもないのに
戦争に対して
備える必要がないのと
同じことなのではないかと
わたしは考えている。

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