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大圓寺の五百羅漢

先日、目黒にある大圓寺というお寺を訪ねてきました。大圓寺にはたくさんの文化財が残されているんですけれども、中でも今回の目当ては五百羅漢でした。

五百羅漢というのは、釈迦が入滅した後、経典を編纂するときに参加した弟子たち500人のことを言うそうです。コトバンクにはこう書いてありました。

ごひゃく‐らかん【五百羅漢】
〘 名詞 〙
① 仏語。仏典の第一結集に参加した釈迦の弟子五百人、または第四結集のおりの五百人の聖者をいう。さらに、その彫像、または、彫像を安置してまつってある所などをもさす。五百阿羅漢。五百応真。五百。〔参天台五台山記(1072‐73)〕〔仏説興起行経‐序〕

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五百羅漢像というのは全国のお寺で作られているもので、その名の通り、五百体前後の仏像を安置しているところが多いです。こちらのお寺では、大圓寺石仏群という名称で、約520の石仏が納められているということです。

ところで、最近民間仏というものに興味がありまして。きっかけは東京ステーションギャラリーで開催されていた「みちのく いとしい仏たち」という 展覧会です。この展覧会では、いわゆる仏師が作った正統的な仏像ではなく、一般の人々が作った仏様がクローズアップされていました。この大圓寺の石仏群も、1つ1つ制作者が分かっているわけではないんですね。石工のような業者も関わったのだろうと想像はできるんですけれども、具体的には分からない。ただ、500体もあるので、その中には民間の人たちが作った仏様もあるんじゃなかろうかと想像はしています。この辺は詳しい方がいたら是非教えていただきたいんですが。

やはり実際に目の当たりにすると、その迫力というのはかなりのものがありました。面白いのは、一つ一つ持っているものだったり、表情だったり、首の角度だったりが全部違うんですよね。同じものが一つとしてない。わざとそうしたのか、自然とそうなっていったのかはわからないんですけれど。

どうも、この石仏群は長い年月をかけて形成されたようで。宝暦13年(1763年)の刻があるものもある一方、多くは天明元年(1781年)以降に造られたと推定されているようです。数十年にわたって作られた石仏群であれば、作り手も複数の人たちが関わっている可能性が高いでしょうし、その人たちの中での技量や好みの違いもあるはずです。つまり、多くの作り手が関わることで、結果として多様な石仏群が形成されたと考えることもできます。

民間仏の展覧会を見た時にも感じたんですけれど、作り手によって仏様の表現の仕方は全然違うんですよね。顔立ち もそうですし、彫りの深さとか、削りの粗さみたいなのも全然違う。それが味になっているし、五百羅漢の場合はそういう違いがあるからこそ、実在するような手触りが感じられるんじゃないかなと思います。

民間仏は仏師のような職業的クリエイターではなく、一般民衆の手によって作られた仏様と位置付けられるんですけれど、なぜ一般民衆が仏様を作ろうと思ったのか、その動機の根底には切実なものがあったんじゃないかと想像されます。

『新編武蔵風土記稿』には、大圓寺の石仏群は行人坂の火事で亡くなった方々を供養するために作られた、と記されているそうです。この五百羅漢はただやみくもにたくさんの石仏を作ったわけではなく、慰霊や追悼の気持ちを込めて作られた仏たちであるということです。それを踏まえて眺めてみると、仏様の顔かたちが、これまでとは違って見えてくるような気がします。

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