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小説を読むことは人生を振り返ること

6年も作家をやっていると、自作に対して色々な種類の感想をいただきます。もちろん悪い事ではなく、小説作品にはいろんな種類の感想が寄せられて当然だと思っています。それはデビュー作の時からずっと感じていることです。

僕は『永遠についての証明』という小説でデビューしたんですが、この小説には2人の語り手がいて、1人は三ツ矢瞭司という天才数学者、もう1人はその友人である熊沢勇一という数学者なんですね。感想を聞かせていただく時に、この2人のどちら側に立って物語を読んだのかということでまったく感想が違うということは、デビュー直後から感じていました。

その後も、例えば『付き添うひと』という連作短編集では少年事件がテーマになっているんですが、子を持つ親としての感想をいただくことがあれば、子供側の視点から意見をいただくこともあったりして、やはり読み手の観点によってまったく異なる内容になるのが興味深かったです。

この傾向はどの作品であっても同じです。読者がどの角度から作品を見るかによって、全然見え方が違ってくるんです。そして読者が作品を見る角度というのは、その人の生育環境であったり、人間関係であったり、仕事や趣味、そういった色々なものの影響で決まってくるようだということも分かってきました。

つまり、小説作品を読むということは、作者が提供する エンターテイメント を楽しむと同時に、自分の人生を振り返る行為でもあるということです。作品をどう受け止めるかということには、必然的にその人自身が滲み出てくるからです。

僕自身の読書体験を振り返っても、それは感じます。僕は東山彰良『流』 や 金城一紀『GO』といった、境界線上の立場にいる青少年が自我を確立していく物語が非常に好きなんですけれど、それは僕自身が境界線上に立っているという意識があるからなんです。ただ、ナショナリズムという意味ではないですよ。幼い時から「自分はまともな人間じゃないのかもしれない」といううっすらとした不安がずっとあって、その不安定さが『流』や『GO』といった作品に引きつけられる理由なんだと思っています。

「優れた文学作品の条件」というのは色々な観点から考えられると思うんですが、僕が考える一つの条件は、「多様な読みを許容し、読み手固有の物語を提供できる」ことです。

この活字ラジオでも話しましたけれど、先日、埼玉県の東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」に行きまして。そこでは館名の通り「原爆の図」という作品が中心となって展示されています。その「原爆の図」の受け止められ方について、同館学芸員の方が次のように書いています。

《原爆の図》は、絵の前に立つ人の持つ背景によって、いくらでも違った見え方をします。それはこの絵が、原爆という人類史上に残る惨禍を通して、いつの時代にも通じる「命」の問題を描いているからなのでしょう。それぞれの時代に、多様な経験を抱えた人が絵の前に立ち、自分の物語を見出していく。《原爆の図》には、そんな無限の可能性があるようです。

岡村幸宣『《原爆の図》のある美術館』(岩波ブックレット)p.62

僕が理想だと思う文学作品のあり方は、ここで語られている「原爆の図」に非常に似ていると思うんです。つまり、鑑賞する人自身に無限の解釈を許し、かつ、その人自身が自分で物語を紡ぐことができるような、そういうあり方の作品こそが優れていると思います。そんな作品を、いつか自分も書いてみたいと思っています。

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