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「普通の街」を取材すること

先日、来年連載を開始する小説のため、都内某所へ取材に行ってきました。

ある街の中心部から住宅街にかけて、徒歩や車で回りました。都心から電車で30分くらいの街なんですが、駅周辺を離れるとかなり自然豊かで、いわゆる「都心」のイメージとはちょっと違う風景でしたね。

駅周辺も、一見すると新しくて賑わいのある一帯なんですが、よく見てみるとすごく古い建物が残っていたり、大きなビルがほとんど入居者もないまま打ち捨てられていたりします。そういう精度の高い観察って、現地に行かないとなかなかできないんですよね。

前はそうでもなかったんですけれど、最近は可能な範囲で、舞台となる街には足を運ぶようにしています。いわゆる住宅街のような「普通の街」であっても。というのも、現地でしか感じられない空気感とか、その土地に足を運ばないとわからない日常みたいなものがあったりするんですね。

例えば、その街での取材中、飛行機が上空を至近距離で飛んでいたんですね。調べてみると、比較的近くに飛行場があるためだったんですが。つまりこの街ではジェット音や飛行機の機影というものが日常で、それは現地に行ったからこそ分かったことでした。あと、舞台として出てくる可能性がある川辺の下見もしたんですが、その川辺もどれくらい人の立ち入った跡があるか、雑草の植生はどうか、ゴミが捨てられているのか、その辺りは現地に行かないとわからないことでした。

すれ違う人たちの雰囲気もそうですね。どの地域にどれくらいの人が歩いていて、それはファミリー層が多いのか、高齢の方が多いのか、外国人の方もいるのか、そういうところも町の大事な要素だと思います。休憩のためにファミレスに入った時にも、どういう人がご飯を食べてるのかな、と観察しました。

以前は、僕の想像だけで舞台となる街を設定することも多かったですし、別にそれで矛盾があったわけではないです。ただ、具体的な街をイメージして、そこに漂っている空気みたいなものを盛り込むことができると、リアリティの面では一段抜けたものになるんです。あと、土地と物語が不可分なものなんだというのは、これまで小説を書いてきて感じたことで。土地に対する理解度が上がっていくほど、それが物語にも反映されていくこともあります。実際にその街を実名で出すかどうかは別問題ですが、最近はできるだけ具体的に舞台設定をすることが多いです。

かつては、「取材」というのは全くわからない土地、例えば海外を舞台にする時や、自分が行ったことのない場所を舞台にする時にやるものだと思っていました。けれど、ある程度身近な「普通の街」であっても、実際に足を運ぶことで初めて認識可能な要素もあるんです。最近になって、そういう「普通の街」を取材することの意味を、身体的に理解できてきた気がします。

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