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『地雷グリコ』が山本周五郎賞を受賞した意義

22日発売の小説新潮に、山本周五郎賞の選評が掲載されています。今回の受賞作は青崎有吾さんの『地雷グリコ』です。

僕は文学賞の選評が読むのが大好きです。今回はノミネート作が4作だったこともあってか、選考委員が各作品に言及する紙幅が直木賞など他の文学賞に比べるとかなり多くて、非常に読み応えがありました。その中から、『地雷グリコ』を受賞作と決定した主な要因であろう部分を、抜き出してみたいと思います。

1つ目は、伊坂幸太郎さんの選評です。伊坂さんは『地雷グリコ』に対して、〈候補作の中では文句なしに一番面白かったです〉としつつ、〈僕自身はこの作品を受賞作にしていいのかどうか、選考会の時までずっと悩んでいました〉と書かれています。

理由は一点です。この小説の面白さの大半が、漫画『カイジ』や『嘘喰い』その他もろもろの、オリジナルゲーム物、頭脳バトル物のフォーマットに拠っているように感じたからでした。

『小説新潮』2024年7月号p.13

その上で、受賞に同意するまでに至った経緯は次のようなものです。

すると他の選考委員から、「青春小説としての魅力は、この小説の相当な美点ではないか」「小説が漫画やアニメに影響を与えてきたのであるならば、その反対、漫画やアニメから小説が影響を受けることは新しさとして重要なことで、この作品に賞を与える意味は大きい」といった意見が出ました。言われてみればその通りです。(中略)というわけで、この作品を受賞作とすることにためらう理由はなくなりました。

『小説新潮』2024年7月号p.14

もう一つ、小川哲さんの選評からも引用します。

「文学賞」というものをある種の特殊ルールが付帯したゲームとして見立てると、本作の弱点は「この作品の魅力を表現するために、小説というメディアでなければいけない必然性はあるだろうか」という点になるだろう。もし小説がアニメやゲームに想像力を与えてきた歴史があるのならば、アニメやゲームの想像力を小説で翻訳し直す試みも評価するべきであると思う。(中略)
どの作品が受賞作になっても不満はなかったが、「新しさ」と「面白さ」の点で抜きん出ている『地雷グリコ』を一番に推した。

『小説新潮』2024年7月号p.21-22

上記で話されていることをまとめると次のようになると思います。「小説から影響を受けてきた漫画やゲーム、アニメを評価するのであれば、漫画やゲーム、アニメから影響を受けた小説もまた評価されるべきである」。

色々な文学賞の選評を読んできたいち文学賞ファンとしては、ライトの作風の小説や人物描写にあまり紙幅を咲いていない小説に対して、「漫画っぽい」とか「アニメのよう」といった表現をされている場面を見かけるたび、 なんとなくモヤモヤした気分になっていました。というのは、もちろん漫画やアニメを下に見ているわけではないんだと思うんですが、「小説はそういったものとは違うくくりにあるんだ」という自認みたいなものが透けて見えたからだと思います。

しかしながら、例えば漫画作品やアニメ作品に対して「文学的な表現」という修辞を使うことはあるんですよね。そしてそれは大抵の場合、肯定的に使われている。もし小説を漫画やアニメと同じ地平に置くのだとしたら、やはり漫画的な表現をしている小説やアニメ的な表現をしている小説というものも、同様に前向きに捉えなければいけない。そう考えることは、とてもロジカルだなと思いました。それはもちろん、作品そのものが抜群に面白い、という前提条件付きですが。

もちろん、文学は文学でしかできない表現を追求すべきだという意見には僕も賛同するんですけれども、一方で山本周五郎賞がエンターテインメントの賞であるというところも大事だと思っていて。他のメディアの表現方法を糧にしているからといって、小説としての面白さが損なわれるわけではない。ましてや『地雷グリコ』はその試みにおいて大成功しているわけで、先行委員も面白さの面では誰一人否定していないんです。であれば、漫画的・アニメ的・ゲーム的な要素は、否定する材料にはならないだろうと結論するのが妥当ですよね。

僕はこうして後追いで語っているだけですが、実際の選考の場では厳しい議論があったはずです。それでも最終的にこの結論にたどりついたことはとても意義深いと思いますし、選考委員の皆さんには敬意を表します。

青崎さんは「受賞のことば」の中で〈この突飛な作品の受賞をきっかけに、文学賞の間口がさらに広がっていけば、より嬉しく思います〉と書かれています。まさにその通りで、『地雷グリコ』の山本周五郎賞受賞は、今後の文学賞のありかたそのものを考え直すきっかけになったと思います。

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