パレエド

ある日からアサヒは昇らなくなった。
 薄暗い洞窟で気味の悪い目覚め方をすると、木彫りの玩具がいなないていた。深くて長い洞窟はどこへも行けず、逆に言えばどこに行かなくても済む。枝先みたいな別れ道なんてどこまで行ってもないのに、無数の幽霊みたいな架空のイメージが跋扈している。
 一ぺん、死んでみろ。生き死になんて尊い話題に口を挟んだのがまずかった。怜悧な神様がきっとこの世界を構築したのだから、私にとってアサヒが昇らない、というのは罰として受け取るのも恐れ多いくらいだ。まるっきり正しいことも完全な間違いも世界には存在しないはずだけど、死への謀反というのはいささかやり過ぎた。そりゃあ軽い罰ゲームじゃあ済まされない。
 アサヒの無いただ暗い洞窟の中はそれでも、前方がうっすらと見通せるから一入驚きだ。ウィリアム・テルみたいな名前の、緑のジャックがやって来て葡萄を私に手渡す。ジャックは葡萄を手放すとそのまま色彩を放棄していき、やがては消滅に至るであろう明滅を見せだして狼狽えるので、食いかけの一房の葡萄を、私は反す。煤けた箒に乗った女性は、アットランダムに歩き回っては、その所在を変え続ける。密度と湿度の変化。
 ここ二週間は洞窟を徒然にさまよい続けている。アサヒは昇らないので実は時間なんてどうでも良いのだが、であれば私の所業はいつ許されるのかも必然、不透明なのだから仕方がない。埒が明かないので葡萄をまた求めようにも、法規に従った亡霊たちは何物も見通せぬような幅の狭い存在でしかない自分たちを表そうとしない。つまり一日二日ご飯に有りつけぬことが頻発しだし、それならばと私は、声に出してでも贖罪を求める。
 「後ろ向きに歩いては来たけど、決して悪い人生ではなかった。もう一度やり直せるのであれば、何度だってやり直したい」
 虚空を掴むように、言葉で世界を握りしめる。まるで何事もなかったかのように目覚めることができるのではないか、杞憂と知りながら物事を心配し続ける青年さながら、全く違ったことを世界に期待し続ける私が居る。天井が落盤してもし、私を取り潰したのならば、一体この世界になにが残り続けるだろうか。
 しかし依然、落盤は起こらなかった。私は座り込むか歩き続けるか迷ってしまうが、目の前にいつかのジャックが突き動かされるように歩き回っていて、声をかけなければ、そう思った。名前も知らない一人のジャック、彼は私にジャックらしくサクランボを渡そうとしてくる。まるで意味を持たない果実も、もし手渡したときならば存外、当たり前が崩れていくものなのだ。しかしそれが、落盤であるとは限らない。悪魔たちの蜂起であったならば従来、生命は何度も危機に晒されているのだ。まるで重みをもたない影とは、その存在は質量としてしか勘案されず、そうであれば人生とは、前もった準備では対処しきれない。
 一つ、真っ赤な林檎が落ちている。そこに居たはずのジャックはもうどこにもおらず、その林檎はただの単独の果実だ。果物は食されて認識されるのに、回り回ってアサヒが無くなり育つことが無くなっても、食すためには俄然、有り続けなければならない。それを食べることの叶わない生き物というものは、どうして死した私の前に立ち現われ続けるのか。
 彼に私は真っ赤なジャックと名付けた。彼はきっと私の言葉で亡くなり、その正体を排除してまで危険な色としての警告を残した。私は林檎を拾い上げると、それが真っ赤なのか、それとも本当はただ黄緑色の未発達な食べ物なのか、どうしても、確認しようもないのだと、はっきりと知る。
 それから、ジャックだけじゃなくて、箒に乗った女性たちは、まとめてマリーと呼ぶのだと分かった。マリーは跨ったまま歩き回って演劇みたいな様相を呈して見せながら、そこにある様々な要素について婉曲にその在り方を変更していく。
 マリーの一人が箒を下りて私から離れていく。箒はマリーの手から離れて行くとすぐに見えなくなり、そのままマリーは前方へと進んでいき、私の目の届かぬ所へと行ってしまう。死角という奴だから、それを克服しようと後を追ってみて、しかしそのマリーはもうそこには居ない。別のマリーが箒に跨って歩き回っている。
 もし箒でなくシリンダーに何もない銃や、小幅のナイフ、せめて果物を剝くためのナイフがあれば、私はそれをどのように使用するだろうか。死と向き合って手に入れかけた私、その私の人生はまだまだこれからだと私自身以外誰も告げてなどくれなくても、だからといって明けない夜の日々を送り続けるのは、私の人生の締めくくりとして本当にそれでよいのだろうか。
 生きていくのが嫌だっただけなのか、死にたかったのかは判らない。そんなことは誰も教えたりすることではないから、もしそれを本当の意味で知りたいなら生きるしかない、死ぬまでただ問い続けるしかない。だけど私は、放棄したのだ。私は考えるのを止めてしまったのだ。
 延々と続く廊下を壁に手を当てながら先へと進み続ける。これが先なのか、それとも後なのかは解らないけど、それをわかる必要はない。黄色いジャックが檸檬を持参してくる。彼らは喋らないけど、意思を伝えるのはとても上手だ。彼らは好きな果物を華麗に手渡してきてくれる。美味しいはずの沢山の果物をくれるから、それは私への厚意だと受け取ることができる。だけどそれを渡すと、ジャックがこのアサヒの無い洞窟からは、永遠に消えてしまう。
 もしかしたらこれは何かの試しなのかもしれないな、とふと思う。手渡しては消滅間近へ行き、そうして私経由で生を獲得し直す。ジャックの名前を知らなければと思う。そしてマリーの本当の名を。
 たった一つ、救えなかった林檎を拾い直す。しゃり。一齧りするが一向、もういなくなった真っ赤なジャックはやって来ない。齧りかけの林檎を服で拭ってみる。磨くと言えばいいだろう。もう齧ることなく、祈るように磨く。
 すると前方が半円みたいな領域を作り出して、そこからマリーと真っ赤なジャックが箒に跨って現れる。
 「よ」
 一言話しかけると、音響が良くて透き通って聞こえてくる。
 「ジャック、名前を教えて。君の名前があれば、ここを出られるんじゃないかって、ただ思うんだ。真っ赤なジャック、名前を教えて」
 ヒトへの喋り方を忘れていた私のぶっきらぼうな言葉にジャックは、箒を降りると私の伸ばした手を引き寄せて林檎を手に取る。音の聞こえない声でなにか喋っているようだ。名前だろうか。それとも、
 「ありがとう」
 だろうか、そんな気はするけど定かじゃない。ジャックは色を帯びだす。齧りかけの林檎を、嬉しそうに眺めながらまたアサヒの昇らない不透明な洞窟を闊歩しだしながら、幸福そうに、そして楽しそうにしている。一緒に来たマリーとはお互い、知らないふりをしている。
 どれくらい歩いただろうか。一人のマリーが、ハンディな果物ナイフを手にしているのを私は悟る。そのマリーの後を追いかけて、近づくと遂には果物ナイフを渡してもらう。マリーはどんどん薄らとして行くが、私は気にしない。その果物ナイフで、自身の首元に狙いを定める。目の前に真っ赤なジャックが居る。
 人生というのは畢竟、後悔の連続であるが、のど元過ぎれば熱さ忘れる、要するに後悔がどこにも役立たなくなっていく。いつか死んでしまった私も、ナイフを手に持てば首元へ向けて当然なのだ。アサヒの昇らぬ洞窟の生活など。
 なんて考えても。
 ずっと前に助け出した目の前の真っ赤なジャックの、本当の名前をふと思い出した。亮。亮。そうだ、私の息子だ。私には生きねばならない理由がある。ジャックもマリーも遂に顔を獲得すると、私にたった一言言葉を述べる。
 「起きて!」
 私はジャックの為に、齧りかけの林檎の皮を剥き始める。

 ゆっくりと目を開ければ、そこは病院のベッドだった。
 隣の椅子では夢の中でマリーだった妻が、林檎の皮を剥いている。
 「あ、起きた起きた。亮―、来なさい」
 酸素マスクをつけた私は薄い意識で、現状について把握する。多分部下の失敗で長いこと続けていた仕事を失った後、残った気力でどこかに傷を創ったのだ。それで。
 亮太の駆け足が聞こえてくる。まだまだやってくる気配のない、いつ来るかも解らない朝日という希望の塊を、それでも私はこれから何度も眺めなくてはならない。辛いなら逃げればいいかもしれない。だけど、もう名前も知らないマリーやジャックの顔を拝むのはごめんだ。
 いつまでも、彼と彼女の顔を見て、生きていきたい。
 未明、どこかでは既に日が昇っている頃だろうか。

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