胡瓜譚



☆賽の河原  
――親より先に亡くなった小児が供養のため石を積み上げている冥土にある河原。
 
賽の河原と呼ばれる三途の川の岸辺。そこでただ水切りで遊ぶような丸っこい石を積み上げるだけの日々。私の他に、地獄谷みたいなこの場所で、みんなはそれぞれ石を必死に積み上げている。しかし、いくらか積みあがってくると鬼たちはやって来ては取り崩していく。
 それでも、みんながみんな泣くことももう忘れている。辛いのは確かだが、石を積み上げる、そのこと以外に私たちにできることはないのだ。
 鬼たちは、恐ろしい形相をしているが、実は恐れるには足らない。鬼たちがすることは、ただ石を崩していくだけだから。そのことに抵抗姿勢を示せない、というだけで、それが必ずしも不幸ではない。鬼が川向こうを気に掛けている。
賽の河原について、一つだけ、世間の知識について質さなければならないことがある。それは、この世界には、親より先に亡くなるというのは、それだけで親不孝であり、それは小児であるとに限らない。
 どうかその意味について、よくよく考えながら、日々を送って欲しいと思う。
 最後の一つの丸いきれいな石を、てっぺんに積み重ねる。
 
☆胡瓜譚について。
――過去とは一種の自己暗示である。
 
先週祖父が亡くなった。百四十一歳だった。
祖父は生前、作家として、胡瓜譚という実話をもとにした実質ファンタジーを記してベストセラーを記録し、それ以後会社員傍ら八十まで執筆し続けたが、無理が祟り、そのあたりから入退院を繰り返した。しかし、「なにがあっても延命措置をし続けろ」と生きるのにこだわった父は、「これが私のわがままについての取るべき責任だから」ととにかく生きることに熱心だった。そして、父が亡くなって三ヶ月、漸く静かに息を引き取り、その結果、もう高齢者ばかりとなった葬儀を行うことになりそうだ。
死んでも化けて出るんじゃないか。祖母が亡くなっても気にもせず生き続けた祖父をそう揶揄する人も多かったが、私は祖父はそんなことはしないと思う。
胡瓜譚を読んだ読者であれば、なぜ祖父がそこまで生きるのにこだわったのか、分かるからだ。祖父は、計算高さというものを嫌い、頑固で、面倒で、常識外れな人間を毛嫌いする節や、政治についてとやかく言う割に選挙に行かない、等々良く分からないこだわりの多い人だったが、しかし、なぜだか筋というものをひとえに大事にしていた。そして、恐らく祖父にとっての筋というものは、胡瓜譚の物語を大事にして、その回転を見守ることであったのではないかと、私は思うのである。
胡瓜譚には、河童が登場する。
しかし、家族のもので河童の姿を見たことがあるのは祖父だけで、それを祖父に尋ねると、きっと今は時期ではないのだ、という回答である場合と、いや、河童は絶滅したのかもしれない、と答える時とがあり、前者の時は機嫌がいい時、後者は不機嫌な時だと、既に亡くなった祖母は茶化していた。
さて、こうして祖父について語らせても頂いた都合、気にでもなれば。是非とも祖父の書籍を手にとって欲しいものである。
 

☆Qa,QWE!
  ――新しい誰かがやって来た、の意。
 
目が覚めると、全く見知らぬ土地に居た。そこは、普段の上野のようでありながら、私の会社がないし、動物園もないし、美術館もなかった。そして人通りが一切なく、日が昇っているのに、私がなんらかの活動をするということが、なぜだか拒絶されてしまっているらしかった。
そして、私は何故だか左手に齧りかけの胡瓜を握っていた。それをどうするともせず、そう言えば前日、帰宅途中に会った同年位の佐藤という男性と意気投合して飲みに行き、その後の記憶がはっきりしないのがだんだんと気づかれてくると、少しばかりの後悔が首をもたげてきた。そうして、知らない街での一日目、というやつは、こうして後悔からスタートした。胡瓜を片手に。
人生そのものと同じで、道に迷うと、小さな選択の決定や、少しの気遣いも憚られる試しがある。それは手にした胡瓜を処分しないことに繋がり、近くのコンビニエンスストアが、コンビニエンスストアでなくなっていることに、見逃すのに貢献した。漸く、畑ばかりであることを認識したころ、まるでこの街は、胡瓜畑だらけだな、と解った。
蔓の先にたくさんぶら下がっている胡瓜は、一体誰の為に育てられているのだろうか。もしかしたら、まだ朝早くて日があるうちだから住人が出てきていないのかもしれない。自身の身体から伸びる影を目にしながらそう考えた。してみると、なにをするにもまず拠点でも見つけねばなるまい。電車はホームゲートどころか駅入り口にシャッターが下りているし、家に帰るにも歩かねばならない。喉が渇いた気がして、手にした胡瓜をもう一齧りしようとしたら、「****」何かが聞こえたと思ったところで耳にブルートゥースイヤホンのようなものを突っ込まれた。
「料金。河童は喋る言葉が河童ごとに違うから翻訳機を耳につけるんだ。胡瓜、人間産のものは美味しいんだよね」背の低い緑の肌をしたなにか、河童(?)が私の手から齧りかけの胡瓜をぬるりと取ると、そのまま建物へと消えていった。
河童は靴も履いていないし、甲羅を背負っていて、頭にはお皿が確かに見えた。河童が消失した後も私は河童のことを考えていた。自販機でジュースを買うと、暫く歩いた先の河原でそれをかちっと開けて飲んだ。暫くすると、曇り空になってきて、河童がたくさん河原までやって来た。
 
☆河童の川相撲
  ――一向に終わりの見えない物事の例え。
 
河童は集まってきたと思ったらワイワイと相撲を取り始めた。トーナメント式のようで、一度勝ったものは、また暫くしてからもう一度相撲を取り始めた。数が多く、決勝戦まで見守ったが、かなりの時間を潰すことができた。優勝賞品は胡瓜で、優勝者が胡瓜を齧ると、いつの間にか集まっていた観衆がわっと沸いた。私はそれを機に自宅を目指した。腕時計は夕方五時を指していたが、この時計が今もきちんと時を刻んでいるかは分からない。車道にも歩道と同じように河童たちは歩き回り、私は河童と交差するたびに会釈した。河童たちはみな小さく、頭の皿がぬるぬるとしていて、私を訝しげに見つめたり、端から気にもかけないものもいたり、河童様々だった。河童は本当に相撲が好きなのだな、とか、皿があることや、甲羅を背負っていることは確かめられたが、それは私の生きる手段には直結しない。河童が河童である分だけ、私の生活性というものは孤立していく。橋を一つ二つと渡るたび、いつまでも相撲をしている河童が視界の端に映った。河童たちはそれぞれ会話するにすれば相撲は誰が強いだとか地区自治の誰の選挙応援に行くとか、私が聞くには娯楽の一種のように思えたが、殊に胡瓜のことを語る河童たちの顔付きだけは、はっとさせられるものがあった。二時間も経てば家に帰りついたが、建物が少し違っていた。構いなく鍵のかかっていない玄関から入ると、明るい人間の声で、
「いらっしゃーい!」
と聞こえてきた。重たい玄関がガチャリと閉まった。
 
☆胡瓜のリレー
  ――同種族間交友のこと。
スリッパをはいて、ペタペタと屋内に入ると、リクルートスーツを着込んだ、二十歳位の女性が木のリクライニングチェアに座って緑茶を飲んでいた。この世界にも緑茶はあるんだな、というかあなたここで何やっているんですか、と思うのとおなじくらいのタイミングで、
「ここ、二十三世紀には私の家で、実家がここでビーガン専用のハンバーガーショップを開いているんですよ。ちなみに緑茶は自作です!今出しますね」
と席を立ってキッチンへ走って行った。
「ここは、所謂異世界ですか? 」
ここが異世界でもなんでも、目の前の女性は全てを知っている気がした。説明キャラとは言わないが、この女性が知らないようでは、きっとその物事は永久に判明しない。
「残念ながら、そういったものではないんですよ。ちょっと説明しますね。私の研究成果を」
ナリタと名乗ったその女性は、私を席に座らせると、小さな茶碗に注いだ緑茶を出した。
「ここは、二十三世紀の成れの果てです。どうやら、あなた、高橋さん、がこちらに迷い込んだことに起因しているみたいなんですよ。
二十三世紀において、集合的無意識の終着点、ここでは結と呼びますが、結の部分において、その完結性は無意識化の犠牲によって成り立っている、と確定しています。難しい言い方ですが、つまりは、「先祖は成仏したのだ」という結論を、人間それぞれが下している、ということにおいてなのです。ですから二十二世紀中盤から、集合的無意識の一部として、賽の河原でのやり取りを意識しだしますが、あくまでバランス論において、私のいた世界線の崩壊を招いてしまう出来事が起きました。
それが、あなたの息子さんです。あなたの息子さんは、本来であれば六歳の時に狂犬病にかかり命を落としてしまいますが、日本人として初めて、賽の河原で石を積み切ることに成功します。しかし、あなたがこちらにきたことで、それがそもそも存在しなくなってしまい、人類は崩壊を迎えるのです。そこに、妖怪よろしく河童たちが繫茂した、って流れですね。私は天才なので、これ、全部自分で調べたんですよ」
ずずっと、ナリタさんがお茶を啜るのに合わせる。
「つまりは、あなたが自分の世界に帰れば解決するのです。ひひっ」
私は部屋を見渡す。
「だけど、帰るにはどうすればいいのか。もしかして分かってるの? 」
「胡瓜です」
「胡瓜? 」
「人間産胡瓜は河童的黄金比の水分保有量になっているので、食べれば時空位飛べます(?)そのあたりは私に任せてください。天才なので。さあ、出かけましょう! 」
「どこに? 」
「悪の河童組織の下へです。河童論的時空唯一論を述べて、今回の件に一枚噛んでいます。胡瓜取られたりしませんでした? そいつらですほら、出かけましょう」
「でも、もう暗いし」
「仕方ないですね。ご飯にして、明日出かけることにしますか。河童的言語で言えば、胡瓜は直ぐに食べろ、なんですけどね。高橋さんの話もいろいろ聞きたいですし」
それから、ほぼ一日ぶりの食事を摂った。胡瓜のマリネ、胡瓜のサラダ、胡瓜のステーキ。などなど。しかし、どれも美味しかった。
美味しい、美味しいと一つ一つに感想を述べていると、
「ああ、私と仲良くしようとしなくて結構です。私は天才なので、感情の返報性において著しく鈍感であります。褒められてもそんなに嬉しくありません。天才なので」
その割には天才天才言うのだな、と少し呆れながら、胡瓜を味わった。
 

☆河童は川遊び
  ――相応しい結末や物事の道理というものがあるという例え。
 
池袋の叙々苑で、その河童たちは屯っているという。歩くしかないので、景色も見ながらのんびりと向かう。ナリタさんは登山リュックサックを背負っている。
「ナリタさんは、就活途中にこちらへ? 」
「実家のラーメン配達途中に迷い込んでしまいました」
「リクルートスーツでね」
「二十一世紀の流行の一つに、物事の原因を特定する、というものがあるらしいですよ。親の所為ってやつですね」
「なるほど。それでリクルートスーツですね」
「話聞いてくれてます? 」
私は河原の河童の川遊びに見入っていた。泳ぎ達者とはまさにあれだ。
「河童は雨の日や曇りの日は、朝から遊ぶんですよ。精神的貴族河童たちが中心となって」
 「河童にも階級があるの? 二十一世紀にもなると、階級って時代遅れなんだけど」
 「階級が時代遅れ、が時代遅れになるのが、芥川龍之介さんという作家が『河童』という小説を書いた後です。結構読まれたみたいですよ」
 「寡聞にして、知らないですね。あ、流されていった」
 「リアル河童の川流れ。流麗ですね。ああして遊ぶというのも」
 ナリタさん、めちゃくちゃ毒舌だな、と私は思いながら、敢えて知らないふりをして、とりあえず早く目的地に着かなければと思う。目的への距離感というのは、長く感じられがちなものである。
 相撲の優勝者らしきものが胡瓜を齧る。雄叫び、歓声、それから雑談と解散へ。これから向かう叙々苑には、河童党という超党派河童連盟の組織的集まりがあるといい、その討議を打ち壊すことと、それから隠し胡瓜を奪取することをしなければならないらしい。
 叙々苑につくと、「天才」の案通り、私は非常階段から忍び込んだ。鍵は空いていて、二階に上がってキッチンで隠し胡瓜を物色すること十分、漸く見つけたところで、ボディー・ガードの河童に頭にピストルを突き付けられて、手を挙げたまま叙々苑テーブル六番席(ナリタさんに渡された地図によれば)に連行された。そこには偉そうな河童がわんさかといて、みんなで美味しそうな焼肉をつついていた。
 「何をしに来た」
河童の一人が口を開く。
 「誰の差し金だ」
 
 ☆All work and no play makes Jack a dull Kappa.
  ――河童のようにしっかり遊んで暮らしましょう、の意。

バフン、と音がしてなにが起きたかと思った。周囲は茶色い煙に覆われて、河童たちは頭の皿を押さえて悲鳴を挙げている。
 「高橋さん、助けに来ました!」
 バフン、ともう一度音がする。私はナリタさんのところへ駆けていく。
 「毒ガスか何かですか? 」
 「きな粉バズーカです!河童はお皿の乾燥に弱いので。信玄餅屋の実家のきな粉、余ってたので作ってみました。天才なので!」
 バフン、バフンとまた発射している。
 (できれば次があったら粉塵爆発という言葉を学んでバズーカ砲作ってください!)
「ナリタさん、じゃあ逃げましょう、胡瓜もちゃんと回収しました」
 「あーあ、高橋さんきな粉塗れ」
 私たちはそれから、走って河川敷まで行き、誰も追いかけてこないことを確認して立ち止まった。走るたびに粉が舞ったので、行き先は誰でも追えたであろうが、きな粉バズーカは相当に効果があったようだ。
「あ、私のポケットから、人間産胡瓜が出てきました。高橋さんの胡瓜と交換しましょう」
 今回ばかりは流石に、最初から出せよ、と思ったが特に突っ込まずに済ましてしまい、少しの後悔はある。私は人間産胡瓜を齧る。
 「高橋さん、お別れですね。息子さんによろしくお伝えください」
 「二十三世紀まで、もし私が生きることがあったら、一度くらいお会いしたいです」
 「無理でしょうね、規則なので。それよりも、息子さんを噛む犬ですが、ドーベルウーマンらしいですよ。高橋さんの人生は、高橋さんが選べばいいと思いーー」
 
 結
 ☆Easy come, easy go.
  ――未来とは一種の自己暗示である。
 
 二十一世紀に戻ると、時間も経って居らず、二〇八九年の十一月二十一日二十三時三十分だった。風呂に入って、いろいろ考えていたが気づくと眠ってしまい、朝のトップニュースでは、多摩川河川敷での河童の複数の目撃情報が報道された。私は何もかも気にならない心情で、仕事へ向かった。
 
 それから、埼玉に移り住んで、結婚して子供ができて、子供が五歳になった時だった。近所に犬と一緒に越してきた家族連れの奥さんが、
「ほら、これがうちの愛犬のドーベルウーマンのミチです」
 と言ったのを聞いて、ピンときた。私は会社に転勤希望を出して、それから、直ぐに大阪へ転勤となった。そして、『河童譚』を発表した。
 私はなにが正解なのか分からない、真っ只中にいる。結論とは本来、成功裏書の下、下すもので、私はとにかく自分にできることをしていくしかなかった。ひたすらに、働き続けた。

 年も取り経験も積んだ今になれば、こうだったのではないか、と推測が立つ。私が河童の世界へ迷い込むことの契機かもしれない人物、一緒に酒を酌み交わした「佐藤」そして、河童の世界で大暴れした「ナリタ」彼らは、私の小説の登場人物の一部であり、未来で私の小説に基づいて、何かしらの組織が送り込んだ人物なのではないか、という仮説である。そうであるならば、私が小さい命を諦めきれず、引っ越すと決心したことの結末を、それほど悲観しなくて済む。そんな気がしている。
 あれから何度か胡瓜を齧る機会があった。しかし、時空を超えるようなことは、起こり得なかった。                              

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