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愛着障害について思うこと

いつの日かノートで次は愛着障害について書こう!って思ったのにずっと書いてなかったので今書いた。ちなみに色々忘れてログイン出来なかったから新しくアカウントつくった。

大前提として、
子供は冒険者であり親は敵の襲ってくることのない安全な家である

安全な家にぬくぬくずっといると自然と窓の外が気になり、冒険したくなるのである。

外の世界に飛び出て、素敵な発見があれば、心を満たされ冒険をして良かったと感じ更なる発見を目指し成長していく。
怪我をしても、安全な家に帰り適切な処置をし傷が癒やされれば次は同じところで怪我をしないようにと対策を考え再び冒険にでかけるのだ。

その冒険の過程で人は自己を確立し、精神的な成長を遂げ、幸せに生きる力を手に入れ大人になっていく。

これが愛着障害でない人の人生である。
愛着障害でない人みんながそうやって理想的な人生歩めるわけじゃないとか見当違いトンチンカンな指摘はしないでいただきたい今そう言う話はしてねぇよ。

では、愛着障害の人はどうだろう。

大前提の安全であるはずの家が、危険なのである。

危険な場所にいれば、外はもっと危険に違いないと思い、冒険に出られなかったり、そもそも危険な家で冒険にでるための準備など出来なかろう。
その危険な家から逃げようとしても連れ戻されるしもっと酷い目に遭わされる。夢も希望もない。
エホバとかいう糞カルトに至っては特殊で、冒険させようとするわりに冒険者が発見するものを安全な家(親)が予め用意したり、冒険者は安全な家(親)が発狂しなさそうなものを空気読んで発見する。本当に発見したかったものはスルーだ。それを見て安全な家(親)は冒険者自らが進んで安全な家(親)が望むものと同じものを発見したのだと大満足する。

なんだそれ、歪んでる。
歪んでる家、危険な家だ。

偽安全な家 安全な家を装った危険な家 気付かない、気付けない危険な家 安全な家の外装した危険な家 表現の仕方が難しいが正当な安全な家では無いのは確かだ。

冒険出来ずに、安心できない場所に身を寄せ続けたまま大人になった者は身も心もボロボロだ。
冒険で得るはずだった幸せを感じるという概念や怪我したら治療するという経験、自己の確立、精神的成長を遂げるチャンス それら全てをひっくるめるとつまりは「幸せに生きる力」それらが、諸々、無い、または乏しいのだ。 

また、偽安全な家による偽冒険しか出来なかったJW2世については、私の語彙が足りず言い表すのが難しい。が、頑張ってみる。

まず、本来自分の興味のあるものを自分で見つけて心を満たす(幸せ)がjw親に邪魔されて、『jw親が喜ぶ物を自らが好きなものという設定にしてjw親が不機嫌になるのを防ぐ、それが出来たら幸せ又はjw親が喜ぶものが幸せ』に変換されたり『冒険者が発見したものを、それを発見したのはエホバのおかげ☺️』とされたり、怪我をすれば傷を癒す役割のはずの安全な家が「神の信仰が足りない」とか言って傷口にトドメを刺し二度と冒険出来ないようにさせる。

こういった感じだろうか、愛着障害は愛着障害でもjw2世の愛着障害は更に複雑で説明しがたい。本当はもっと歪んでいるのに言葉で表現できないのが悔しい。

その危険な家から一生解放されず、苦しみ続ける者もいれば、冒険にでれなかったことによって生きる力を得られなかった為自らその危険な家に居続ける者もいれば、なんとか逃げ出したものの生きる力がない為犯罪に手を染めてしまう者や、また新たな危険な家に身を寄せて苦しみ続ける者、奇跡的に安全な家を見つけたのにそこが安全かどうかしつこく確かめ続けた結果家が壊れてしまったり、安全な家を苦しめ続けてしまったり、安全な家を知らないのに安全な家にならなきゃいけない側になり四苦八苦したり危険な家側になってしまったり、とにかく冒険出来なかった大人の人生はとても困難極まりない。
しかも自己を確立できぬまま大人になっては、せっかく好きなことをできる状況になっても、あれ?自分って何が好きなんだっけ?となって非情に虚無である。

愛着障害じゃない人のスタート(安全な家)は愛着障害の人のゴールであり、愛着障害じゃない人のゴール(幸せに生きる力GET)は愛着障害の人にとっては西遊記の天竺や宇宙戦艦ヤマトのイスカンダルばりに遠く、そこにたどり着けるには並々ならぬ努力や強運が必要だ。ゴールを超えた先にあるゴールなんて、わたしには辿り着ける気がしない。イスカンダルに着いた瞬間ワープ無しでテレザート星に行けと言ってるようなものだ。


愛着障害の人と愛着障害じゃない人はスタートが違えばゴールも違い、わかりあえるはずもないので、愛着障害の人は、愛着障害じゃない人に愛着障害の人の人生を理解してもらおうと拘らない方がいいだろう。そんなことに拘ってる暇あったら、病院に行ってカウンセリング受けるなり本を読んだり映画見たりして今からでも出来そうな冒険(経験)した方が幸せに生きる力は身につくだろう。
本や映画はおすすめだ、他人の人生の疑似体験が手軽に出来る。
冒険出来なかった者(愛着障害の人)にはピッタリだと思う。

ちなみに私は今どの時点にいるかというと、実はゴールしてる。
つまりは愛着障害じゃない人のスタートにいるのだ。
さぁ、あとは冒険にでて、愛着障害じゃない人のゴール、私からすればゴールを超えた先にあるゴールを目指す時。

でも、私は安全な家を出る冒険者であると同時に、また別の冒険者(5歳の息子)の安全な家にならなければならないのだ。

外国に行ってみたいとか大学に行って勉強したいとか大掛かりな冒険は難しいが、それこそさっき述べた映画や読書がちょうど良い。

皮肉なことに幼き頃より聖書を散々読まさせられた我らjw2世はそこらの人より本を読むのが得意だ。

というわけで最近、湯本香樹実さんの夏の庭を読んでいる。
10年以上前に一度読んで内容知っているにも関わらず引き込まれてしまい本を読む楽しさを思い出させてくれた。

読書は良いぞ〜!というお話でした。(あれ?)

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