孤独を楽しむ暮らし🌱#12
自分軸で生きる
ここ最近、スマホに詐欺メールがやたらと届くようになりました。YouTubeを見ていると、有名人を騙った投資詐欺が横行しているようです。詐欺広告を載せないようにするべきだとして、運営元を追求する動きもあるようですが、はたして意味があるのか疑問です。運営元に管理を望むのではなく、詐欺広告に騙されないように認識を変えるべきだと思います。一つを潰しても、際限なく出てくるはずです。キリがないです。次々と出てくる詐欺広告を鵜呑みにせず、情報に対するリテラシーを育てることが重要ではないでしょうか。
将来のための資産運用として、NISAなど大きく取り上げられ、自分もなにかしなければならないといった空気感になっています。そういった世情を背景に、詐欺広告は、何かしらの利益を得られると期待を煽る内容です。その広告に使われている有名人が、ほんとにこんな投資セミナーをやるのか?理屈で考えれば、オカシイと思うはずなのに、ついつい騙されてしまう人がいます。
人は、自分が見たいものを見る。“儲かるかもしれない“、“得したい“という感情が先行して、“これは本当か“と情報を精査することが抜け落ちてしまうのです。何もしなければよかったのに、“欲“を刺激され、将来のためにせっかく貯めたお金を、広告ひとつ電話ひとつに騙され巻きあげられてしまう。
スマホを開けば、詐欺広告がいらっしゃいと待ち構えています。わたしのところにも、ジャンジャン怪しいメールが入ってきます。まったく知らない電話の着信もあります。その会社のカード持ってないのに、カードを持ってる前提で「大事なお知らせがあります。詳細は下記のURLから」をはじめとして、ゆうパックや宅配便を騙るもの、投資に関するものがあちこちから来ます。着信番号を調べたら、アメリカからの詐欺電話だったり、ほとんどが迷惑電話としてネットに上がっているものでした。
大事なことは、「何だろうと安易にURLをタップしないこと」。知らない番号の電話は取らず、ネットでその電話番号を調べる。たまに、ヤマトや佐川からのときもあり、そのときは折返し電話をします。でも、ほとんどは迷惑電話としてあげられているものだらけです。
いまの世情を思うと、これまでにはなかった論争がいろいろ起きています。性差別の問題、子どもを持つことの問題、障害のある人についての問題‥、「こうあるべきだ!」と「その人にとっての正義」を語っています。そこまで介入すべきことだろうかと、思ってしまいます。
世の中に不安感や絶望感が蔓延し、ヒステリックになって、ワーワー騒いでるように感じてしまいます。
こんな時代をどう生きていくか。
とにかく、冷静にならなければ。
「広告を見たら詐欺と思え!」で、すぐに鵜呑みにしない。知らない電話は、切れるのを待ってから必要なら折返しする。
いろんな考えがあって、どれが正解かは分かりません。ただ、人によって考え方は違うのだという前提に立ち、自分はこう思う。こう考える。という、“自分軸“を持つようにしたいと思うのです。情報にアンテナを張って、手間ひまを惜しまずに、「自分で調べる」ことが大事だと思います。世の中がどうであれ、“自分は自分“と、“悠々閑々“で静かに暮らしていきたいです。
人にはそれぞれ考え方があります。
「普通こうだよね」という「普通」は、人それぞれの前提条件によって、実は違うものです。どんなに親しい人とでも、適度な距離を置くことが必要かなと思います。「この人はこういう風に思うのか」「そういう考え方もあるのか」と受け止める。
自分は自分、人は人と、あくまでも対等な目線で耳を傾ける。
また、やたらと人の噂話をする人がいます。ほんとかどうか分からない話を、しゃべって大丈夫なのかと思います。聞いた私が誰かにべらべら喋ってまわったらどうなるか考えないのかなと。こういう人は、自分は正しいことをしているつもりで、人の愚痴を拾うのです。「えーそうなの」と話に乗ってくるのを期待していますが、そこはサラッと「そうなんですね」で終わらせます。それに対して自分はこう思うとか言うと、巻き込まれてしまいます。
ただ、そんな人を拒絶するのではなく、「そうなんだね‥」で軽くかわしていくのがいいかと思っています。人のことをあれこれ言うより、自分のことを考えた方がいいと思います。大切な時間なのですから。
生きていくなかで、いいこともイヤなことも次々と起こります。喜びや悲しみは、自分の心の中でほどほどに感じていられたらと思います。
自分が喜びすぎることで、思いもよらず他人を傷つけてしまうこともあるし、悲しみは感染るもので、他人の心まで沈ませてしまうものだからです。
ふとしたときに、ずっと昔のことを思い出すことがあります。それは、誰かに言ってしまったこと、してしまったこと。なんであんなことしてしまったんだろうと、過ぎた過去にごめんなさいをしてしまう自分がいます。自分が傷つけられたことより、誰かを傷つけてしまったことの方が胸がキュッとなります。
子育て中も、あんなに叱らなくてもよかったのにと。23歳で結婚して24歳で母親になって、身内が誰もいないところで夫も帰りが遅く、ほとんど1人で子育てして、母親としての未熟さから、ついつい厳しくして叱ってしまうことがありました。子どもたちには、あの時はごめんねと謝れるけど、もう謝ることができない相手にはどうすることもできません。
でも、自分がされたことは案外いつまでも覚えていないことに気づいたのです。してしまったことを自分が覚えているだけで、人は案外忘れているかもしれないと思うようになりました。もしかしたら、いろんなことを覚えていて苦しくなるのかもしれません。波乱の人生を生きた女性の作家が書いたエッセイに「すべてを覚えていられるほど、わたしは強くない」と書いていました。イヤなこと、後悔は、ほどよく忘れて、過ぎたことにはすべて「ありがとうございました」と感謝の思いで生きていくほうがいいと思うようになりました。
「徒然草」に、“存命の喜び日々に楽しまざらんや“というくだりがあって、“せっかく生きているのだから、その喜びを感じつつ日々に楽しく生きること“という意味だとありました。なんでも“ほどほど“にして、まわりにある小さな楽しみを見つけていく。そうやって暮らしていきたいですね。