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武蔵滝山城①ー名前について

東京都八王子市加住町にある武蔵滝山城
別名は竹山の城や向山、横山城、
古文書には【瀧山】と明記されています。
竹山の城と書かれている古文書も確かにあります。
まず、【竹山の城】についてですが、
天正10年〜12年頃あたりに、豊臣秀吉が小田原北条氏を潰すために作成させた【北条家人数覚書(毛利家文書)】には、【竹山の城】と書かれています。
廃城の時期がずれと豊臣秀吉の小田原征伐が早いのではと思いますが、それは後ほどで。
何故、【竹山の城】と明記されている理由は
滝山城の小宮曲輪や堀の中に竹が生えているからと言う人もいるかもしれません。


滝山城小宮曲輪の横堀(私有地あり)



でも、その竹は戦国時代から?と尋ねられているとそれは言えないでしょう。
確かに、マダケとハチクは古くから日本に自生していたと考えられています。 滝山城にある竹はこれらではなく【孟宗竹】だと言われています。
モウソウチクの導入時期については諸説ありますが、1736年に中国から鹿児島に導入されたものが株分けされ、全国に広がったとされています。
だとすると、おかしいのです。
では、一体何故【竹山の城】と記載されたのでしょうか。
一つ目には豊臣家が北条氏に送り込んだ間者の聞き間違い。
これは結構あると思います。なぜなら、全てと言いませんが、古文書は嘘があるのも実際にあるからです。負けてるのに、勝ったと書かせた書状も確かにあります。今の時代のように消しゴムや鉛筆が日本に普及していなかったらこんな間違えはあると思われます。
二つ目には豊臣家が北条氏に送り込んだ間者が滝山城を拝見した心境を意味している可能性があります。
竹の語源は【高く伸びるもの】と言われます。
そうすると、豊臣家の間者は、かなり低い位置から高く聳え立ち、幾重にも連なる姿の滝山城を見ていたかもしれません。その心境のまま書いたため、【竹山の城】と書いたかもしれません。

次に【向山】と言われる理由です。
滝山城の南側には作目村という村がありました。
そこから滝山城を見たことを指していると言われます。作目村は多摩川の洪水により今はありません。

最後に、滝山城が【横山城】と言われる理由は、近くにあった【高月城】と横にあったからと言われています。
高月城も滝山城同様に大石氏のお城ですが、築城年などはっきり分かってないですが、築城年は滝山城よりも早いのは確かです。そのため高月城から滝山城移動は、横の山に移る意味に近かったからそう言う名前が付けられたとも言われています。
高月城は、北条氏照が入った後も使われたかもしれません。高月城は滝山城の西を抑えるための必要不可欠だったかもしれません。
滝山城の城下町には【横山】・【八日市】・【八幡】という地名があったと言われております。

今回はここまで。



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