苦労をしても人は成長しない

「若いうちの苦労は買ってでもしろ。」は、とても危険な考えだ。

以前、まだ僕が“若かった”頃の話。当時の上司に「若いうちの苦労はお金を払ってでもやったほうがいい。身体の無理が効くのは若いうちだけだよ。」と言われ、「ふ〜ん。」と思い、長時間残業を繰り返していたことがあった。3日3晩働き詰めたこともあった。

今では、とても頭のおかしいことだと振り返る。

「時間をかければかけるほど成果が出る。」と“信じている”人が、日本人には今もなおとても多い。“信じている”とカギカッコ付きで書いたのは、これはもはや一種の信仰であり、あしき慣習であると僕が思うからである。

あしき慣習の根源にあるのは、一生懸命にやり抜くことは素晴らしいという「がんばリズム」という考えだ。このよくない点は、社会に根強く残る「頑張ること=素晴らしい」という価値観と、頑張る姿こそ賞賛されるべきという評価システムとが融合する構造が、過剰に評価されている点にある。

何か成果を出すために、頑張ることはとても大切だ。ところが、これは結果から見えたことに過ぎない。頑張ったから成果が出た、ということは単純な因果関係では説明できない場合がとても多い。頑張るために必要な休養は適切に取れていたか、パフォーマンスが最大限発揮できる環境があったか、集中できる時間がどれほど確保できたか、適切な報酬が提示されていたか、取り組む時間数やタスクの順番が適切に管理されていたか、運がよかったか、など様々な要因が重なって初めて本人の頑張りが正しく発揮される。正しく頑張るためにはこのように様々な要因をあらかじめ調整する必要があり、ここにとても頭を使う。「苦労は買ってでも〜」、や「時間をかければかけるほど〜」、といった頭を使わない根性論では、長時間労働を繰り返す歴史は変わらないだろう。

人を本当に成長させるのは、根性論ではない。成長に必要なのは、没頭できるほど楽しめる領域を見つけ出す観察力と、制約された時間の中でどれほど生産できたかを絶えず評価することと、改善を図ることとと、継続することである。

楽しい仕事を探そうということではない。仕事の中には、楽しいことと楽しくないことが混在している。こんな仕事は好きだけど、こんな仕事は極力やりたくない、というものが必ず出てくる。これらのうち、極力やりたくないことに対して面白みを作っていくということだ。ゲームのようにできないか、自分の趣味につながることはないかと考えてみる。ただダラダラと時間をかけることではなく、こうした知的営みこそ頑張る気持ちを傾けるべきである。

そして、頑張ったかどうかは時間ではなくやはり成果物で示すべきだ。時間を区切る、ということがとても重要なポイントだ。時間の制約があるからこそ、緊張感とメリハリが生まれてくる。成果物ができれば、次の改善策が必然的に生まれてくるので、継続的に取り組むことが可能になる。

苦労をしても、人は成長しない。工夫をしてこそ、人は成長する。時間延長に甘えない断固たる姿勢と、限られた時間の中で成果を出すためにどうするかを絶えず考え続ける知的な戦略立てが、正しい努力と成長を生む。根性がすべてのがんばリズム仕事論から、知的に脱却することで、仕事の質と個人の成長速度は加速度的に変化する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?