人は人に助けてもらう前提で行動している
「人に助けてもらう前提で行動するな!」というコメントを受けて困っている人がいるという件について。
双子用のベビーカーに子どもを乗せてバスに乗ろうとしたところ、1台目は止まらず、2台目は止まったものの乗務員は手助けしてくれず、乗客の助けで乗車できたという出来事に関する、書き込みのようです。
いやいや、何を言っているんだと。人に助けてもらう前提で行動しますよ?自分が困ったら構わず周囲の人に助けを求めるし、周囲に困っている人がいたら自分は助ける側に回る。こうした共助は当然のことだし、ごく自然なこと。まったく気にすることではない。乗客の助けで乗車できたという結果の通り、人は人を助けようとするものです。いうまでもなく、人は生まれた瞬間から医師や助産師の手助けを受けている。立って歩くにも、保護者などのいろんな人の手助けを受けている。学校の活動では、先生、友人、先輩・後輩のいろんな助けを受けている。成人してもなお、仕事上のお付き合いや家族含めて数えきれない助けを受けて生きている。人は人に助けてもらう前提で生きていることは綺麗事でもなんでもない「事実」であって、それを否定するのはかなり難しいと思うわけです。
「人に助けてもらう前提で行動するな!」の心無いコメント。どんな正義が働いてこんなコメントを書くのか、ちょっとだけ考察してみます。
・外出先でもし困ったことがあった時どうするのか
・誰かに助けを求めなくてはと思っても急に声が出なくなったらどうするのか
・誰かに助けを求めなくてはと思っても周囲の人が全員いじわるで見捨てられたらどうするのか
・誰かに助けを求めなくてはと思っても周囲に誰もいなくて孤立したらどうするのか
コメントの主はおそらく、こうした「極度の心配性の人」なんじゃないかなぁと思われます。心配性の人であれば、ちょっとした外出もある種の「冒険」でしょう。車を運転するなんてそんなリスキーなことできません。バスの乗車だってアクシデントを想定すればちょっとやめておこうとなるかもしれません。ほんの少しの散歩ですら、心配性の人にとってはリスクです。車に轢かれるリスク、カラスの糞が落ちてくるリスク、公園からボールが飛んできるリスクを考えれば、のんびり散歩などできるものではありません。あらゆるリスクを避けて行動するというのは、社会生活それ自体が成り立たなくなってしまいます。
心配性の人であれば、「人の助けを前提に行動する」なんていうのはハイリスクな行動そのものなのです。何かあったらどうするのか、人はそもそも助けてくれるのか、そもそも人は信頼できるのか。そうした考えがあってのコメントであると推測すると、少しは整合性が取れると思います。
まぁ、僕はまったく共感はできませんが。
最近よく思うのですが、人生なるようにしかならんですね。
どれほどリスクを考慮した行動を取ろうとも、結局なるものはなる。生きていると、自分の力だけじゃなんともならないことが実に多い。遺伝やら運の影響を多く受けて生きている僕らは、きっと自分の意志通りに人生を全うすることなどできない。だから、人は周囲の人の手助けを受けながら生きていくようにプログラムされているんだと思う。遺伝やら運で不幸になっていく人生を、いくばかりか幸せに歩めるようになるために、人は手助けを受けるようにできているのだと思う。
「他人様には迷惑をかけてはいけません!」と教えられることが多い日本ですが、インドではその事情がちょっと違うようです。
「あなたは、人に迷惑をかけて生きていかなければならない。だから、人のことも受け入れてあげなさい。」
僕は、「周囲への配慮」を大事にする日本人の生き方は限界がきていると思っています。迷惑をかけないようにと自分を抑圧する教育よりも、「困ったら、僕を頼って!」とどんどん手を差し伸べるポジティブな教育が今後は必要だと感じています。
ベビーカーに子どもを乗せて、堂々と胸はってバスに乗れる人が増える社会になると良いと思うし、僕はそういう行動をとっていこうと思います。
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