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日記 - ひぐらしの記憶

蝉の抜け殻が、玄関のドアの横の壁についていた夕暮れに、散歩に出かけた。最近、夕暮れ時の散歩が好きだ。夏の夕暮れ、ひぐらしが鳴き始める頃、僕はなんとなく外を歩きたくなる。そして、入道雲。

ほんの100歩くらい歩いたら、近くの林を眼前に広がる。木々の揺れ、伸びてきた稲。北の空には、千切れた雲たちが、一定の法則に従って、空にまぶされている。

田んぼの横を流れる水路が、ところどころで音を立てる。曲がるところや、ぶつかるところで。水たちが、迷いなく流れる音に、何かが清められる。

森の方へと歩みを進めるにつれて、ひぐらしの声が、大きくなってくる。いつも思うが、ひぐらしの声によって、僕の意識のある領域が活性化するような感覚を持つ。その領域は、瞑想や音楽に深く没入しているときの意識の領域と近い。あるいは、寝そうになっている時の眠りと覚醒の狭間のスペースにも近い。

いずれにせよ、ひぐらしの声は、かなり太古から人が聞いてきた音であろうと、推測する。そして、その古代の脳に刻まれている心当たりのある音として、僕に何かを思い出させようとしているような感覚を持つ。

ひぐらしという存在が、毎年、現れ集合的に、ひぐらし的世界を響かせる。
少なくとも、子ども頃から、夏になると聞いてきた。
ひぐらしたちは、その集合的な種として、夏の記憶を司り、その記憶を永遠に歌っているように感じられる。

僕が、忘れても、"僕ら"は覚えているよ。

と彼らが、僕に言っているような気がしてくる。

束の間、それは本当に、夕食ように作っていたグラタンの最後の仕上げが終わる10分ほどの散歩であるけれど。
僕の中では、ひぐらしの声と、夏の雲が、時間性の外から語りかけてくる。

家に戻るとき、田んぼの横の水路で足を止めた。水の一部が、そのまま川へと流れ、一部が、田んぼの中に入ってくる分岐で立つ、水の蠢きをじっとみていた。

そのとき、小さなカエルが、ぴょこっと、草むらから飛んだ。
よくみると、そこらじゅうに小さなカエルが、たくさんいたのだった。はたから眺めているとき、僕は、ただの草むらにしか見えていなかった。

けれど、そこには、カエルや蟻、ちいさなバッタ、たくさんの生命が、息づいていた。

僕は、ひとしきり、彼らの蠢き全体を感じていた。

そして、家に戻った。

家に戻ってから、空に「カエルがいっぱいいたよ」と伝えた。
空は、興味を持ったけど、「鬼ごっこやろう!」と言って、僕を外に連れて行こうとした。
いっぱい水を飲んで、僕は庭に出た。

「空が鬼ね」
と、言って、ほっぺがほころびながら、僕を追いかけてきた。

小さな家の前の空き地で、思いっきり走る。空は、夢中になって追いかけてくる。車の周りをぐるぐるしたり、わざとスピードを落としてから、急に速くしたり。

あんまり長く逃げてると、空が怒り出す。

そこで、「タッチしないからぁ」と言って笑いながら近づいてくる。

結局、僕は捕まることになる。

でも、また空が鬼をやる。

そして、僕は走りだす。

日が暮れてきた。グラタンももうできていい感じに冷めているはずだ。

「グラタン食べようよ」と空にいうと、
「そうしよう」と言って、家の中へ戻った。

今日のグラタンは、特別だった。初めて思いついた組み合わせだったのだ。ジャガイモのグラタンはよくやる。でもそこに今日は、薄いスライスした玉ねぎとピーマンとナッツをいくつか入れたのだった。

これは新鮮で、しかも美味しかった。麻衣は、僕らが戻ってくる前にもう食べていた。

僕も早速食べて、空は、絵の具遊びを始めていた。一旦グラタンのことはいいらしい。

本当によくできていた。空の分まで食べてしまいたいくらいだったが、味わって欲しいので、残しておいた。

その後、アサリがあったことを思い出して、ボンゴレ風のうどんパスタを作った。うどんパスタ、これ意外といいのだ。美味しいうどんでやると、打ちたてのパスタのようなもちもち感がある。

ニンニクを炒めて、香を出して、そこにアサリを投入した。薄くスライスした玉ねぎも入れた。(今回の玉ねぎはやたら美味しい。当たりだった。切っても涙も出ない)とにかく超シンプルに作ったら、思いの外、美味しくできたのであった。
美味しい満ち足りた料理がどうやって生まれるのか。ということについて、自分の中での確信が芽生えている。それは、今ここにくつろいで存在しているかということだ。その今ここに存在する意識状態にいるとき、絶妙なタイミングで、ことがなされていく。その豊かな時間は、ある意味で、時間性を超越している。

夏の夕暮れに散歩をしたとき、飛び込んでくるひぐらしの声が、呼び覚まさす意識の領域は、世界がすでにありったけ豊潤であることを僕に気が付かせる。

また一つ、夏がゆく。
後何回、僕は夏に出会うんだろう。
そう、それは年月という時間性の中で数えて仕舞えば、あと100回はないだろう。
だが、僕らは、いつも今ここで、無数の夏と新たに出会い、また同時に出会い直している。

ひぐらしの声は、無数の個体が、奏る総体の声。その一つ一つに夏がある。そして、その一匹一匹は、無数の先祖たちが、命を紡いできた営みが、今ここに、結集して、彼らは夏を奏でている。

僕が、忘れても、"僕ら"は覚えているよ

彼らの声が、静けさの中で、夜更けにリフレインする。

2024/7/23


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